食事を済ませると橋本は早々帰ると言って立ち上がった。
「駅まで送ろうか?」
「大丈夫です。大通り出れば、あとは一本ですよね?」
「ああ。道なりに曲がらずに行けば通りに出る。あとは右へずっと行くだけだ。万一迷ったら電話しろ」
「わかりました」
「気を付けて」
 孔が手を振ると、「ごちそうさまでした」と最後に笑って橋本は部屋を出ていった。足音が消えるのを確認して孔は立ち上がり、風間の隣に座って肩に身をもたれかけた。そうして風間の手を握った。風間は孔の手を握り返して、もてあそぶように親指で手の甲をくすぐった。
「…なんと言うか」
 そう呟いて、風間は苦笑する。
「ふと我に返ると、恥ずかしいものだな」
「なにがだ」
 孔は不思議になって風間の横顔を見た。風間は小さく笑ったまま孔を振り返り、
「君を、初めて恋人だと人に紹介したよ」
「…え? 誰に?」
「橋本にだ」
「――何故?」
「何故って…」
 風間は吹き出してしばらく笑い続けた。
「君が昨日、酔っ払って抱きついてきたんだ。覚えていないのか」
「…そんなこと、したか?」
「覚えていないんだな」
 苦笑して風間は肩をすくめた。
「橋本が心の広い人間で助かったよ。…まあ、別にやましいことをしているわけではないから、隠す必要もない筈なんだがな」
「…橋本さん、なにも言わなかったな」
「そうだな」
 孔は必死になって夕べの記憶を探った。風間のマンションへ帰り着いて橋本に会ったのは覚えている。なにか話をした。…なんの話だ? 確かラバーの話――いや、違う。ペンの裏がどうのこうの…抱きついたか? 本当に?
 覚えていない。
「…なにか、言われたか」
 恐る恐る聞くと、風間は少し考え込むような素振りを見せた。それからぽつりと、
「二人で幸せになる道を、きちんとみつけろと」
「……」
 孔は言葉を失ってうつむいた。そうして、そんなものが簡単にみつかれば苦労はしないのにと、ふと思う。
 上海へ戻ることを決めたのは自分だ。ユースで指導が出来るのは単純に嬉しかった。そうして帰国を決めた頃、まだ風間が自分を許してくれるとは思っていなかった。こんなふうにして会うことが出来るとは思っていなかった。
 でももしそれ以前に、帰国の話が出る前に、風間とヨリを戻していたらどうしただろう?
 今まだ辻堂で指導をしていて、こんなふうに風間と一緒に居られて、その上でコーチから誘いがあったとしたら――。
 ――多分、それでも、向こうに戻ったな。
 きっと戻ったに違いない。そばには居たいと思うが、それだけで風間のお荷物になるのは嫌だった。どんな形であれ卓球に関わっていたいとずっと思っていた。ユースが呼んでくれるのなら断わる理由はどこにもない。
 結局、今の状態がお互いにとって一番いいのだ。その筈なのに。
 孔は何故か悲しくなってしまう。そうして風間の手をぎゅうと握りしめると、慰めるように風間も握り返してくれる。
 そっと顔を上げて二人は唇を重ねた。
「今日のご予定は?」
 唇を離すと、風間がぽつりと聞いてきた。
「別に…風間、練習は」
「今日は自主的に休みだ」
 そう言って小さく笑った。
「だったら、一日風間と一緒に居る。ここでいちゃいちゃ」
「――それはいい予定だ」
 二人は顔を見合わせて小さく笑いあった。そうして手を離してあらためて抱き合い、唇を重ねる。舌の絡まる感触にふとうずきを覚えて孔は小さく悲鳴を洩らした。そうして唇を離し、風間の目をみつめ、また重ねようとしたとたん、不意に風間の携帯が鳴り出した。
「橋本だ。迷ったな」
 風間は苦笑して電話を受けた。口をへの字に曲げて孔は風間が電話を切るのを待った。
「仕方ない。迎えに行ってやろう」
「橋本さん、タイミングが良すぎる」
「まったくだ」
 そっと孔に唇を重ねて風間は立ち上がる。
「行こう。ついでに土鍋を買ってこようじゃないか」
「はーい」
 孔は渋々立ち上がった。


 静かに押し入ると、孔はうめき声を上げて風間の腕にしがみついた。いつもこの時ばかりは不安になり、同時にたまらなく欲望を掻き立てられる。我を忘れて滅茶苦茶にしたいという欲求に支配されて、一瞬だけ頭のなかが真っ白になってしまう。
 切れ切れに息を吐き出しながら孔が力を抜いてゆく。それにあわせて風間も更に奥へと進み、またか細い悲鳴に体が熱くなる。
 そっと息をついて風間は孔の髪を掻き上げた。そうして唇を重ねて、暗がりのなかでじっと孔の顔をみつめる。
「なに…」
「うん?」
「なにが楽しい」
 小声でささやいて孔は風間の首に片手をかけた。
「笑ったか?」
「笑った。なにかおかしいことしたか?」
「いや…」
 風間は孔の頬に手をかけて、ゆっくりと指で撫でさする。
「私のような朴念仁のどこがいいのかと思ってな」
「ボク…?」
「ぼくねんじん。無愛想な人間のことだ」
 そう言って風間はふと首をかしげた。
「どこがいいんだ?」
「首」
 孔は即答した。
「首?」
「首。噛みたい。あと、目」
「ほお」
「あと声。それから全部」
「ずいぶん大雑把だな」
 風間はつい苦笑した。
「欲しいところを言ったら、それだけくれるか」
「それは無理だな」
「どこがいいなんて、わからない。風間は私のどこがいい」
「そうだな…」
 少し考え込んだのちに、
「目と、髪と、匂いと――」
 そうしてそっと腰を引いて突き上げる。
「あん…っ」
「その、いやらしい声かな」
「ばか……あっ、あん…っ、…はぁっ」
 孔はあわてたように風間の首にしがみついた。風間は微笑みながら孔の足を抱え上げて更に強く突き入れた。
「あ…! は……あ…ぁっ、あん…! あ…っ、」
 陶酔したような孔の声に聞き惚れながら、風間はその腕を取ってベッドに押し付けた。そうして手を握り、握り返される力の強さに陶然となる。
「孔」
「あん! …あっ、…はぁ…! …ぁ、かざまぁ…っ」
 引き寄せられるようにして唇を重ね、舌を絡めあった。互いに息を交わし、唇を離してまた孔をみつめる。乱れた息の合い間に洩れる孔の悲鳴が気持ち良くて、風間はどこまでも突き上げる。
「や…あっ、あん…! あ…っ、は…あぁ…! あ…!」
 陶酔のうちに風間はふと悲しくなる。
 悲しみをごまかすように強く孔の手を握り、首にしがみつく孔の手の熱さと、首筋に立てられた爪の痛みだけをただ感じている。
 ――時は、必ず過ぎてしまう。
 本当は、こうしているだけで既に充分幸せなのに、何故このままでいることが出来ないのだろうと、当たり前のことを疑問に思って苦笑したのだった。


春の日/2004.04.27


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