二月のあの日以来、こんなふうにして連絡が来たことは一度としてなかった。元からの習慣でスマイルの側からなにか言葉をかけることはなかったし、正直そんな気にもなれなかった。顔もあわせづらく、ささいなやり取りですら今は躊躇してしまう。
だけど、とうとう佐久間から連絡が来た。
これがいつもの調子での誘いなら簡単に断われた。なんやかやと理由をこじつけて誘いを退けることは容易だった。それが出来ないのはやはりあの晩の記憶があり、今までのことがあるからだ。
何度か返信を打ち込み、送信しようとして消去した。気にするな、別に会う用事もないし、いいよ気にしなくて――何度も言葉を考えては、それが本当に言いたいこととかけ離れていることに気付いてまた消してしまう。
携帯をテーブルに戻し、食堂のなかをぼんやりと見回しながら、どうしようかとスマイルは考える。
このまま無視してしまおうか。嫌だと一言送ってしまおうか。そうすれば簡単に終わらせられる。もう二度とあんな辛い思いをしなくて済む。――だけど、
『早い話がエンコーだろ?』
『どうせハナっから俺が相手だなんて思っちゃいねえんだろっ』
胸の奥がむずむずする。
顔を見るのも嫌だと思えるぐらいならどれだけ楽だろう。この二ヶ月、こうして佐久間からの連絡を待ち望んでいた自分さえ居なければ、素っ気無く「嫌だ」と一言送る勇気さえ出れば、なにもこんなに悩まずに済む。
恐れているのは、本当に今度が最後になってしまうのではないかということだ。
三十分近くスマイルは悩み続けた。悩み続け、その結果、疲れ果てて悩むことを放棄した。しばし考え込んだのちに、たった一言だけを送り返した。
『焼肉。』
「上カルビ二人前と、タン二人前と、ハラミとレバーを一人前ずつ、あとホルモン一人前とー」
スマイルのせわしない注文を店員はあわてて伝票に書き取っていく。
「あ、あとユッケ食べたいなー、いい?」
「…なんでも好きに食えや。っつうか、ユッケ、俺も」
「じゃあユッケ二人前。あと海鮮盛り一つとキムチ盛り合わせ一つと、生ビール二つ」
あわただしい注文の数々を繰り返し読み上げ、店員は去っていった。スマイルはおしぼりで手を拭きながら「焼肉なんて久し振りだ」と嬉しそうに呟いている。
「たまに母さんと一緒に食べに行くんだけどさ、最近はご無沙汰だったんだよね」
なんか休みでも家に居ないしと言って肩をすくめた。
「デートでもしてんじゃねえの」
「そうみたい」
「マジっすか」
冗談のつもりが肯定されてしまい、佐久間は驚いて吸い込みかけた煙を吐き出した。
「お袋さん、幾つだっけ」
「…三十七? ま、別に結婚なんて幾つでも出来るしね。いいんじゃないの? 今更兄弟出来るのは、ちょっとあれだけど」
「でもまあ、その歳でも余裕でガキ産む人居るからなぁ」
「ねえ。女の人ってすごいよね」
そう言ってスマイルはおかしそうにくすくすと笑う。同じように笑いながら佐久間は灰皿に視線を落とし、案外場の空気が砕けたものであることに内心安堵のため息をつく。
スマイルからの返信を目にした時、佐久間は思わず吹き出した。それでも余計な文句もなにもないその返事が嬉しかったのは事実だ。
夕方、職場の近くの銀行で金を引き出し、駅で待ち合わせた。意外に美味いと評判の店があると言うので連れてきてもらった。連休前の為か店は混んでいたが、なんとか待たずに座ることが出来た。このまま飲みにでも行きたいと言い出せば連れて行くつもりだった。今夜ばかりは幾ら金を使っても惜しいとは思わない気がした。
「っつうか、もう牛食っても平気なんだっけ?」
「…どうだったっけ。一応メニューには『国産牛肉使用』って書いてあるけど」
「まあ狂牛病かかるんなら二人仲良くっつうことっすね」
「アクマと一緒に脳みそスポンジになるの? それは嫌だなぁ」
「だったら焼肉食いてえなんて言うなよ」
「だって食べたかったんだもん。ふぐ刺しとかの方が良かった?」
「…ふぐは冬だろ」
苦い顔でそう言うと、またスマイルはおかしそうにけらけらと笑う。そうしてやってきたビールジョッキを取り上げて、「お疲れ様でした」と笑顔でぶつけてきた。
「ゴールデンウィークは仕事休みなの?」
「いんや、カレンダー通り。とりあえず明日は休みだけどな、明後日また仕事」
「大変だね。ムー子ちゃんも?」
「……あいつは南の島でバカンスですよ、お兄さん」
「えー、海外旅行だ。いいなあ。――アクマは?」
「だから俺は仕事だっつうに」
「社会人は大変なんだねぇ」
スマイルはビールを飲みながらにやにやと笑う。佐久間は「けっ」と吐き出して、
「お気楽大学生とは違いますからね」
「ねぇ。友達が一日から秩父に遊びに行くらしいんだけどさ」
「平日ど真ん中じゃねえかよ」
「…僕って余裕あるように見える?」
「は?」
スマイルの思わぬ台詞に、肉へ伸ばしかけた箸が止まった。まじまじと見返すと、スマイルは少し困ったように肩をすくめてみせた。
「友達に言われた。余裕があってうらやましいって」
「…どーいう類の余裕よ」
「彼女欲しくないのかって聞かれて、面倒だからいいって答えた。そういう種類の余裕」
「…まあ余裕っつうかなんつうか、」
時々、不安にはなる。
昔からなにに対しても執着が薄く、ずっと続けている卓球ですら楽しんでいるのかどうか疑わしかった。いつもルービックキューブを手放さず、じっと内に閉じこもる毅然とした感じは、どこか近寄りがたくもあり、その寡黙さのなかになにがあるのか興味も引かれた。
けれど目の前へ行ったとしても、本当に視界のうちに収まっているのかどうかも判然とせず、たまに自分が路傍の石になってしまったかのように不安にさせられることがあった。それを指して「余裕がある」と言ったのかも知れないが。
――余計なこと言いやがって。
佐久間は見知らぬスマイルの友人に向かって、ふとやり場のない怒りを覚えた。そうして、気にすんなと簡単に答えようとしながらも、つい別の言葉を口にしてしまう。
「でもまあ、お前だったら腐るほど告白されてんだろ」
「そうでもないよ。バレンタインにもらったチョコもみんな義理ばっかりだったし」
「案外本命が隠れてたりしてな」
「それは困るな」
そう言ってスマイルは苦笑した。
「どうでもいい人と適当に付き合えるんだったら、気が楽なんだけど」
「…居ねえのかよ、そういうの」
網に肉を載せながら佐久間はさりげなく聞いてみる。ちらりと見ると、スマイルはまた困ったように笑っていた。
「『思う人には思われず、思わぬ人に思われて』って感じ、かな。…ムー子ちゃん、かわいいよね」
佐久間は思わず吹き出した。
「欲しけりゃくれてやるぞ。そんかし、ここおごりな」
「えー、それはやだ。じゃあやめた」
「あんだテメー、人の女つかまえて焼肉でケチつけんのかよ」
「せっかくの連休に放っておかれる癖に」
「うるせぇな、テメーの話してんだろうがよっ」
そう言って箸を突きつけると、スマイルはジョッキを持ち上げながらげらげらと笑った。あいだにはさんだ焼き網の上では既に肉がいい感じに焼き上がっている。「さー、食べよう」と言ってタレを小皿に分けながらふと笑いをおさめた顔を見た時、初めてスマイルが緊張していることに佐久間は気が付いた。
――なんだよ。
なんとなく、互いに気を張っていたのがおかしくて、佐久間は小さく笑う。
「…なに?」
「なんでもね」
ようやく心の底からの笑顔を見せて、佐久間は肉にかぶりついた。
駅前の喧騒は商店街を行くにつれて背後へと遠ざかってゆく。春先の生温いような、それでいてどこかひんやりとした空気が心地良く、スマイルは深呼吸をし、深く息をついた。そうして互いに肩を組み合って歩く佐久間が道端のゴミ箱にけつまずくのにつられて道路に倒れかかった。
「アクマー、ちゃんと前見て歩こうよぉ」
腕を引っぱって立たせてやりながらも、踏ん張りきれずに今度は自分がこけそうになった。互いにもたれるようにして二人は体勢を立て直し、意味もなく笑いながらまた道を歩き出した。
「っつーかさ、オメー飲みすぎだろ」
「なんでー? あんまり食べられなくなんないようにって、セーブしてましたよ?」
「そっかぁ? なんだよ、生ビール十一杯って。そんなに飲んだか?」
「んー、覚えてないねえ。でもいいんじゃないの。とりあえず焼肉美味かったし」
「美味かったなぁ」
「また行こうねー」
「今度はお前がおごれよー」
「宝くじが当たったらねぇ」
なんじゃそりゃと佐久間に突っ込まれ、スマイルはまた笑い声をあげる。祝日を明日に控えた駅前の通りは自分たちと同じような酔っ払いが大勢居たが、商店街を抜けてしまえば辺りは普通の住宅街だ。閑散とした夜の空気のなかに自分らの笑い声がこだまするのをぼんやりと聞きながら、スマイルはアルコールと佐久間の腕の感触に酔い痴れていた。