佐久間は携帯をもてあそびながら休憩室の壁にかけられたカレンダーをじっと眺めている。
――四月…も、終わり。
どこかの銀行からもらったらしいそのカレンダーには桜の絵が描かれており、犬の散歩の最中である小さな女の子が立ち止まって見上げている。だが実際にはとうの昔に桜は散ってしまった。既に緑の葉を芽吹き、新たな季節の到来を称えて美しく輝いている。
「…佐久間」
「はい?」
男の声に振り返ると、テーブルの向かい側に座る北原がこちらの手元をじっと見下ろしていた。
「煙草――灰――あ、落ちた」
声と同時に、佐久間の手の上にポトリと煙草の灰が落ちた。長いあいだほったらかしにしていたようで、灰の長さは煙草本体の半分ほども長さがあった。佐久間はあわてて灰皿を引き寄せ、手の上の灰を放り込んだ。
「見てたんなら、もっと早く教えてくださいよ」
「いや、気付いてないとは思わなかったんで…」
そう言って北原はげらげらと笑う。
「なんだよ、ぼーっとしちゃって。彼女との旅行が待ち遠しいのか?」
「ありませんよ、そんな予定。だいたいあいつ、今年は友達とどっか海外行くっつって、楽しそうに準備してましたもん」
「置いてけぼりかよ」
「そうなんすよ」
佐久間は苦い顔で新しい煙草を引き出した。
もっとも恋人の旅行の話を聞かされたのはずいぶん昔のことだ。会社の同僚何人かで南の島へ行こうと話が盛り上がったらしい。「行ってもいーい?」と聞くので、佐久間は好きにしろよと答えた。勤めが辛いとこぼしていた恋人が、その会社で一緒に旅行へ行けるような友人を作ったのだ。厭う謂われはどこにもない。
「じゃあ今年は寂しいゴールデンウィークだな」
「まぁあいつが居たって、なんも変わりませんけどねえ」
そう言って佐久間はとぼけたように煙を吐き出した。
世間は大型連休と言って浮かれに浮かれまくっていた。日程の関係もあり、会社によっては十一日間も休みとなるところがあるらしい。だがそんな豪勢な話は佐久間の会社には無縁だった。カレンダー通りの休みしかもらえないので、有給を使わない限り通常の三連休以上の休みはない。
「北原さんこそ、どっか出かけないんすか」
「…出かけさせられるんだろうなぁ」
北原はそう言うと、げんなりとした表情でテーブルに突っ伏した。その様子があまりにもおかしかったので、お返しとばかりに佐久間はげらげらと笑った。
この男は佐久間の直属の上司とも言うべき立場の人間で、見習いとして今の会社に入ってからずっと面倒を見てもらっていた。歳は十以上も離れているのだが不思議と馬が合い、仕事を離れての付き合いも多い。何度か家に呼ばれて食事を振る舞われたこともある。
「俺なんかは毎日仕事仕事で疲れてるからうちでノンビリしてたいと思うだろ? でも嫁さんも子供も、どっか連れてけー連れてけーって、やかましくってなぁ」
「どこ行ったって疲れるだけっすけどねえ」
「それがあいつら、わかんねーんだよ」
そう言って北原は自棄のように缶コーヒーの中身を飲み干す。佐久間は携帯をテーブルに置き、つられたようにペットボトルへと手を伸ばした。
決算期から新しい年度を迎え、忙しさの波も収まりつつあった。とりあえず明日は連休初日のみどりの日。だが今のところ、佐久間はなんの予定もない。
――どうすっかなぁ。
再びカレンダーに目を投げて、佐久間はぼんやりと考える。
スマイルと音信不通になって二ヶ月が過ぎた。あのずる休みの日、一緒に外へ昼飯を食いに出てそのまま店で別れたっきりだ。特に彼からのメールなどの受け取りを拒否しているわけではないが、当たり前のようにスマイルからの連絡はない。佐久間もなんとなく言葉がかけられず、今に至ってしまった。
このままほっとけよ――そう語りかける声もある。下手に話を蒸し返して今以上に気まずくなったらどうするんだと、臆病者の自分がささやきかけている。それもそうだとは思うのだが、どうも納得がいかなかった。
多分知らないフリで通すことも出来るだろう。このまま連絡不通になって、それこそ昔のように殆ど会うこともなく、互いの生活に流されるままにすることも出来る。…だけど、
――顔見てぇ。
少なくとも元気でやっていることぐらいは確かめたかった。一度きちんと詫びたかった。悪いことをしたという自覚ぐらいは佐久間にだってある。
そうして携帯をもてあそび、メールを打ち込もうとしては文字を消してしまう。そんなことを何度となく繰り返し、ため息をつき、また無駄に煙草を灰にしてしまう。
休憩室の窓から見える空はわずかにかすみがかっておりながらもどこまでも広い。日射しは初夏の如くに暑く、冷えたビールでも気分よく流し込みたいところではあるが――。
佐久間は携帯をテーブルに放り出して煙草をくわえた。そうしてソファーに寄りかかり、またため息をついた。こんな時期にこんな暗い気分で居る人間はきっと俺ぐれぇなもんだろうと、ぼんやりと考えながら。
昼時を越えた食堂は閑散としていた。スマイルは窓際の日当たりのいい席に陣取って、だらだらと食事をしながら手元に置いた携帯に落ち着かない視線を送っていた。
「いよっ」
不意に後ろ頭をはたかれて振り返った。鈴木がパック入りのジュースを飲みながらプラプラと手を振っている。
「今頃昼飯?」
「…図書館で寝てたら、こんな時間になっちゃって」
「寝てたんかよ。よくみつけられなかったな」
「閲覧室の隅っこの方に目立たない場所があるんだよ。知らない?」
「知らない。だいたい図書館なんてあんまり行かないしなぁ」
そう言いながら鈴木は向かいの席に腰をおろす。
「お前、ゴールデンウィークどっか行くの?」
「別に、どこも行かない。うちでのんびりしてるだけ」
「若いのにおっさんみてぇな奴だな」
「うるさいな」
そう言って苦い顔をすると鈴木はけらけらと笑い、バッグのなかを探り始めた。
鈴木は大学に入った当初からの友人だ。たまたま語学が同じ教室だったというだけなのだが、会えばなんとなくいつも一緒に居た。にぎやかな性格の男で友人も多く、なんで僕なんか気に入ったんだろうとたまに不思議になることもある。そうして、少し勝ち気なところが、ペコにちょっと似ているなと思っていた。
「ご予定ないんでしたら、一緒に秩父の高原へ出かけませんか」
言いながら鈴木は一枚のチラシを取り出してみせた。
「秩父?」
「そ。五月の一日から二泊三日でコテージ借りてんのよ。今のところ五人で行く予定なんだけどさ、どうせ人増えたって布団は借りられるし、割り勘にすりゃあ宿代は安くなるだろ? 食事は作るし、車はワゴン借りるし、もう二人ぐらいまでなら増えても大丈夫なんだよ。お前行かない?」
「…秩父ねぇ」
チラシを眺めながらスマイルは呟く。特にこれといった予定もないし、気晴らしに行ってみるのもいいかとも思うのだが、どうもいまいち乗り気になれなかった。無造作にチラシを返して、「遠慮しておく」とだけ呟き返す。
「もうちょっと悩もうよ」
「根がインドア派だからさ」
そう言って苦笑した。
「どうせ遊べんのは今年が最後なんだからさ、高原にロマンス求めに行こうぜ」
「別にそんなもの、求めてないし」
素っ気無く返すと、鈴木は苛立たしげに頭を掻いた。
「あーもう、もてもて君はこれだから嫌んなるよなぁ」
「なんだよ、それ」
「余裕があってうらやましいってこと」
同じく苦笑しながら鈴木はチラシをバッグにしまった。スマイルは味噌汁をすすって肩をすくめた。
「別に僕、もてないけど」
「そこがさぁ――だああああ、もうじれったいなぁ」
「なんだよ」
箸を置き、ごちそうさまでしたと呟いてスマイルは鈴木の顔を見返す。
「お前、彼女欲しいとか思わねーの?」
「…今は、別に」
ちらりと携帯を見遣ってスマイルは首をかしげた。
「なんか面倒臭くて」
「そこが余裕のある人とない人の違いなんですよ」
そう言って鈴木は再び苦笑し、立ち上がった。
「まあ行く気になったら電話くれよ。前日までだったらなんとかなるからさ。山本が『月本くんは来ないのー?』って残念そうに言ってたし、来たら喜ぶんじゃね?」
「…わかった。もうちょっと悩んでみる。――もう帰るの?」
「帰ります。準備で忙しいんで」
じゃあな、と手を振りながら去ってゆく鈴木の後ろ姿を見送り、スマイルは小さくため息をつきながら携帯を拾い上げた。
図書館で寝ているあいだ、電源を切っていた携帯にメールが届いていた。佐久間からだ。
『久し振り。元気でやってますか。
良かったら一度会ってもらえませんかね。なんでも好きなもんおごります。
嫌なら嫌でいいから、返事ください。それでは。』
彼らしくない妙に固い口調が、佐久間の緊張を如実に伝えていた。そうして実に二ヶ月振りに届いた誘いのメールに、同じようにスマイルもひどく緊張を覚えていた。