「あー、便所行きてー」
不意に佐久間が呟いた。
「いきなりだね」
「店で行き損ねた。悪ぃけど、トイレ貸してもらえませんかね」
「あとで返してね」
二人はスマイルの自宅方向に向かって道を曲がり、外灯が作る自分たちの影を延々と追い続けた。周囲の迷惑も顧みないまま笑い声を上げ、やがて見覚えのある自宅の屋根が目に飛び込んでくると、スマイルは「こっちこっち」とわかっている筈なのに佐久間の手を引いて我が家へと引き寄せる。おぼつかない手元で玄関の鍵を開け、佐久間に悪態をつかれ、笑い返し、どこかに足を引っかけて転びそうになり、つられて転びかけた佐久間がのしかかってくる。
抱きしめられていると気付いたのは、少し経ってからだった。
スマイルは玄関の壁に寄りかかるようにして崩れかかった体勢を立て直し、ぼんやりとした意識のまま佐久間の背中に軽く抱きついた。そうして酔いにかまけたため息を吐き出して、
「アクマ?」
今更のように声をかけた。
「返事、こねえかと思ってた」
それまでの酔いなどなかったかのような、ひどく冷静な声だった。スマイルは不意を突かれたような気になって思わず顔を見ようとするが、反対にきつく抱きしめられてしまう。
「…まあ、こなくても、しゃあねえなとは思ってたけどよ」
「……」
スマイルはしばらくためらったのちに、あらためて佐久間の背中に抱きついた。
「…返事、迷ったんだけどさ」
「――」
「…焼肉食べたくなっちゃって」
佐久間が吹き出した。つられてスマイルも笑い、二人はしばらくのあいだ、暗闇のなかでくすくすと笑い合っていた。
「美味かったな、あの店」
「意外と穴場なんだよね。目立つ店じゃないし」
「ちっと高ぇのがなんだけどなぁ」
「…アクマ、焼肉臭い」
「お前もな」
二人は互いに腕の力を抜いてゆき、そっと顔をずらせて向かい合う。明り取りからわずかに射し込む外灯の光が、暗がりのなかに佐久間の顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。スマイルはなにか言いかけながらも思うように言葉が浮かばず、探るように手を動かして佐久間の腕に触れた。同じように腕を探り、そっと手を握られ、その温もりに勇気を得て言葉を口にした。
「……顔、見たかったし」
不意に佐久間の手が髪を梳いた。
「二ヶ月振りっすね」
「そんなもん?」
「そんなもんすよ」
「…十年ぐらい経ったかと思ってた」
そうして手を握り返すと、ゆっくりと佐久間の気配が近付いてきた。暗がりのなかを探りあい、二人はそっと、触れるだけのキスを交わす。唇を離すと、何故か今更のように戸惑いを覚えてスマイルはうつむいた。抱き寄せられて肩にあごを乗せ、小さく息をつく。そのまま佐久間の指が後ろ頭を撫でるのをぼんやりと感じながら、思わず聞いてしまう。
「返事、しない方が良かった?」
「あんで」
「……わかんない」
だけど、やめておけば良かったかも知れないという後悔がひしひしと押し寄せて来ているのは事実だ。スマイルは佐久間の手を放し、ぎゅうと背中に抱きついて顔を隠した。
「…わかんない」
なんでこんなふうに抱きつくのは気分がいいんだろう。わずかに煙草の匂いを嗅ぎ取り、安堵の息を吐き出しながらスマイルは考える。なんでこんなふうに抱きしめられるのは気持ちいいんだろう。この温もりを、もっと味わいたいと思ってしまうのは、どうしてなんだろう。
佐久間はなにも言わないまま背中を抱き返してくれている。
首筋に唇が触れて、スマイルはきつく目をつむった。そっと息を呑み、横目で佐久間の様子をうかがう。頭を撫でる手から逃れるように顔を上げて唇を重ねた。そのまま何度かキスを交わし、互いにためらいながら舌を絡ませ、思わず声を洩らしてしまった時、
「――だぁめだ、我慢出来ねっ」
そう言って佐久間がスマイルの体を引き剥がした。驚いて見返すと、暗がりでもわかるほどひどく真剣な表情をしていた。
「便所」
「――はいはい」
スマイルは苦笑しながら玄関の明かりをつけ、勝手知りたる他人の家とばかりにトイレへ駆け込む佐久間の足音を聞きながら居間へ上がった。
電灯の紐を引いてまぶしさに目をしばたたかせ、上着を床に放り投げた。そうして柱に寄りかかって佐久間を待つ。トイレから出てきた佐久間に向かってねだるように腕を伸ばすと、嬉しそうに笑いながら抱きしめてくれた。
「アクマ」
「はい?」
すっかり安心しきっているこの笑顔が今ほど憎たらしく見えたことはなかった。
「詫びの一つも入れてくれるんだろうね」
言いながら自分の顔が引きつっていることが嫌というほどに感じられた。予想以上に冷たい自分の声音に自ら驚きながらも、スマイルは表情を消して動揺を悟られまいとする。佐久間は顔色を失ってそろそろと腕をおろしてゆき、まるで人形のように、またたきもせずにこちらをじっとみつめている。
「まさか食事おごったぐらいで今までのこと帳消しになるなんて思ってないよね?」
「……なにすりゃいいんだよ」
スマイルはなにも答えないまま佐久間の目を見返した。ガラスの奥でかすかに侮蔑と恐怖の色が動き、やがてそれらはあきらめの色一色に塗りつぶされた。わずかにうつむいた顔がふてくされているように見えるのは、多分気のせいだろう。
「なにしてくれる?」
スマイルは反対に聞いてみた。佐久間はしばらく考え込んだあと、肩をすくめて「なんでも」と答えた。
「まぁ人殺せとか、俺に死ねってぇのはちっとあれだけど、法に触れなきゃなんでもするさ。それで気が済むんなら、いくらでも」
「……」
「…そんだけのことはしたしな」
そう言って自嘲気味に笑った。
「嫌ならもう連絡しねえし、殴って気が済むんならそれで構わねえし。…お前が決めろよ」
自分もこんな目をしていたんだろうか。スマイルは佐久間の顔をのぞきこみながら考える。一年近くもの昔、あの梅雨明けの晩、怒りと屈辱のうちで力任せに金を叩きつけた。殴っておけば良かったと何度も後悔した。顔を見るたびに怒りの火種は吹き返し、それでも会えることが嬉しくて、そんな自分がミジメで仕方がなかった。最後の最後は本当に自棄で、――あのまま終わってしまえば良かったんだと気付いてスマイルは今更のように愕然とした。
連絡をよこした佐久間も、佐久間に返事を出してしまった自分も、もう落とし前をつけるとか詫びを入れるとか、そんなところに立っていない。
「――だったら、もうあんなこと言うなよ」
言った瞬間泣きそうになり、スマイルはごまかすように佐久間に抱きついた。
「金の為だとかなんだとか、…身代わりだとか、思っててもいいけど絶対に言うなよ」
聞かなければ知らないのと同じことで、知らなければずっと笑っていられる。どれだけ内心でバカにされようと、嘲笑のネタにされていようとも、佐久間からの誘いを心待ちにして、誘ってくれるその気持ちだけを信じていられる。
ためらいがちに佐久間の手が背中に回った。そっと抱きしめられて、
「…思ってもねぇよ」
「知ってるよ…!」
結局、スマイルはまた泣いた。かすかに佐久間の嗚咽も聞こえ、安堵のうちにスマイルは泣き続けた。初めて二人の道が交差した瞬間だった。
暗がりのなかで抱き合ったまま、互いにずっと言葉は無かった。スマイルの狭いベッドのなかで向き合って布団をかぶり、言葉を交わす代わりに何度も何度もキスをした。まるでささやきでもすれば一瞬にして夜が明けてしまうと恐れているかのようだった。
佐久間の手が髪を梳き、スマイルはあごに指を触れて、またキスをする。時折熱いため息を吐き、しがみつくようにして背中に回された手に力が込められると、佐久間は無言で抱き返した。幸福のさなかにあり、それでいて二人ともが不安の大きな塊を抱えていた。それでも佐久間は暗がりのなかで小さく笑い、また唇を重ねた。
――あーぁあ。
スマイルのえりあしをもてあそびながら、佐久間は内心でため息をつく。幸福と歓喜に満ちたため息だ。そしてその幸せの代償として待っているものを自覚しているが故のため息だ。うかがうようにスマイルが顔を上げ、佐久間はなだめるようにキスをする。そうして二人はまた抱きしめ合って、言葉にならないその想いにひたっている。
出てくる感想は一言だけ。
あーぁあ。
嘆息。/2004.12.03