「スマイル今春休み?」
「春休み。四月の七日から二年目開始」
「そっか、大学かぁ。やっぱ勉強大変?」
「そうでもないよ」
そう言ってスマイルは小さく笑い、やってきた店員に青りんごサワーを一つと注文した。
「あと中生一つ」
そう店員に言いながら、なんかやけに飲み方セーブしてんなと佐久間は思う。そうして、いちいちスマイルのことばかり気にしてしまう自分に気付き、ふと据わりの悪さを覚えた。
「アクマは真面目にお仕事してますか?」
「うるせーな、テメーに言われねえでもちゃんと働いてるよ」
佐久間は灰皿の煙草を再び手にして、もう一方の手でペコの頭をぐいと押しやった。その髪は以前のおかっぱ頭とは違って短く刈り込まれている。
「なんか、見慣れねえから変な感じだよな、その頭」
「そっかぁ? 男前っしょ」
「どこが」
けっ、と吐き出してジョッキを握ろうとし、それが空であることに気付いてあわてて元に戻した。
「アクマって、まだあの娘と続いてんの?」
「あー?」
「ムー子ちゃん」
「…続いてますよ」
「へー、すっげーなぁ。長いよなぁ、もう何年よ」
「三年ぐれえは過ぎたんじゃないんですか。なんかもうねえ、惰性みたいなもんすよ、ここまでくると」
「そーいうもん?」
「そーいうもん」
佐久間は煙を吐き出しながら天井を見上げる。
「でも続いてんだから、それなりに愛情はあるんでしょうが」
「まあ、嫌いならとっくに別れてっけどな。なんつーか、別れる理由がないから付き合ってるってぇ感じっすかね」
「へえー」
「ちょっとトイレ行ってくる」
そう言って不意にスマイルが立ち上がった。気のせいか、少し足元がふらついているようにも見えた。かなり酒には強い筈だからこの程度で酔うとも思えないのだが。
「……なぁに怒ってんだ、あいつ」
グラスに口を付けながらぽつりとペコが呟いた。
「――は? え、あれ怒ってんのか?」
やけに静かだとは思っていたけれど。
驚いてペコに振り返ると、少し考え込むように首をかしげながらも、「多分な」と答えた。
「久々だから、なんかよくわかんねえけど。前よくあんな顔してたよ。怒ってるっつうか、気に食わないっつうか、なんか我慢してるみてえなさ、すっきりしない顔」
「へえ…」
案外抜けているようで鋭い観察眼に思わず感心してしまう。そうして、やっぱ敵わねえなと、ふと苦笑した。
スマイルが戻ってきたのは店員が新しい飲み物を持ってきたあとだった。
「ごめんペコ、悪いけど僕帰るよ」
席に戻りしな、スマイルはそう言った。
「えー、もう?」
「ごめん、ちょっと具合悪くってさ」
そう言いながら財布を取り出し、いくらかの金をテーブルに置く。そうして上着に袖を通しながらもう一度「ごめんね」と呟いた。
「あに、風邪でも引きましたか」
「うん、そうみたい。昨日からちょっと咳出てたんだけど…」
「大丈夫か?」
佐久間の呟きに振り返り、スマイルは小さくうなずいた。
「まだしばらくは帰らないんでしょ?」
「おう。多分来週いっぱいぐらいは居ると思う」
「風邪治ったら電話するからさ。ご飯でも食べようよ」
「わあった。――気ぃ付けてな」
「うん。じゃあね」
小さく手を振りながらスマイルは玄関口に向かう。その様子からなんらかの感情を読み取ろうと佐久間はじっと目を凝らすが、別段怒っているようには見えなかった。
「…やっぱ、怒ってんのか?」
「…ちぃっとな。まあ具合が悪いだけかも知んないけど」
「っつうか、あいつサワー飲まないで帰ったんだけど」
「オイラがいただきますよ」
そう言ってペコは嬉しそうにグラスを手元へと引き寄せる。そうして再び首をひねりながら、
「でもなあ。ほんっと、なに怒ってんだかなあ」
「俺が知るかよ」
佐久間は吐き捨てるように言い、煙草を灰皿に押し付けてもみ消すとビールを一気にあおった。
「なんか気に食わないことでもあったんじゃないんすか」
「うわ、アクマまでなんか不機嫌になっちゃって。――って、え? あれ?」
「あ?」
何故か急に酔いを覚えながら佐久間は振り返る。
「なんだよ、お前らケンカしてんの? それであいつ不機嫌なの?」
「別にケンカなんかしちゃいねえけど――」
そう言って、ふと苦笑を洩らした。
「だいたい俺ら、ケンカするほど親しくもねえだろ」
「だよなぁ。オイラとはよくケンカしたけどなぁ」
「若い頃のいい思い出ですなぁ」
そう言って佐久間は自棄のように笑い、そんなふうに笑い飛ばすことの出来ないわだかまりを、心の片隅に発見していた。
懐かしい感じだった。
桜がちらほらと咲き始めた三月の末、ペコは再びドイツへと旅立っていった。「花見したかったなぁ」と残念そうに呟き、駅まで見送りについていったスマイルに何故かでこピンをかまし、
「じゃあな」
額を押さえてスマイルは言葉もなく手を振った。
それから約ひと月。
あの飲み会の晩以来、佐久間とは会っていない。何度かメールはもらったが、食事に誘われてもなんとなく乗り気になれず、なんやかんやと理由をつけて断わってしまっていた。新しい学年になり、いささか忙しいのも事実だった。そんなふうに自分に言い訳をしつつ、気が付くとゴールデンウィークが終わっていた。
生きてるか、という題名で佐久間からメールが入ったのは、五月も半ばを過ぎた頃のことだった。
『今日暇か? 暇だったら飯でもどうよ。そういや体の具合はいかがっすか。』
『ありがとう。平気だよ。八時に駅で。大丈夫?』
『了解。』
――少し早く着きすぎたな。
スマイルはホームにかかる丸時計に目をやり、三十分近くもの空き時間をどう過ごそうかと思案に暮れる。これから飯を食いに行くのに喫茶店では意味がない。そもそも暇をつぶすべき何物も持っていない。
五月に入り、季節はいきなり梅雨を飛び越して夏を迎えてしまったかのような暑さだった。日中は半袖でも汗ばむような陽気で、日が暮れてからも穏やかな気候に変化はない。
コンビニにしようか、それとも本屋の方が建設的かと考えながら改札口を抜けると、
「――あれ?」
ふと目の前にムー子が立っていた。
「スマイルくんだぁ」
そう言ってこちらを見上げ、にっかりと笑う。
「こんばんは。今帰り?」
「うん。…あれ、この駅だったっけ」
突然の邂逅に内心度肝を抜かれながらも、スマイルは努めて平静を装いながらそう聞いた。
「んー、違うんだけどね、ちょっとマー君ところ行こうかと思って」
「そう…」
「じゃあね」
ばいばい、と手を振るムー子の顔をしばらく眺めたのち、スマイルはそのあとを追った。
「途中まで送るよ」
「平気だよぉ」
「いいよ、どうせ方向一緒だし。――嫌じゃなければ」
「嫌じゃないです。じゃあ、お願いします」
そう言ってまた笑う。かわいいなとふと思った。
二人は並んで歩きながら人ごみを抜ける。そうして人通りが途切れたところでムー子が口を開いた。
「そういえば、あの時はありがとうね。助かった」
「え?」
「ほら、マー君とケンカして――」
「ああ」
去年のことだ。佐久間とムー子がケンカをし、音信不通になった。このままずるずるとなし崩し的に別れるのは嫌だが、自分ではっきりさせるのも少し怖い、ということでムー子から連絡をもらった。あいだを取り持つというよりはただの連絡要員でしかなかったが、結果的には仲直りをさせるきっかけになったようだ。
「まあ、あんまり役に立ったとは思えないけど」
「そんなことないよぉ。ホントに助かった」
「そお? ならいいけど」
スマイルは小さく笑い、ぬるんだ空気のなかを歩きながら、どうしようとぼんやり考える。まさかこんなふうにしてムー子と会うとは思っていなかったし、恐らく佐久間も彼女の来訪を知らない筈だ。
「あたしねえ、」
ムー子の声によってスマイルは思考を破られた。「なに?」と聞き返しながら振り向くと、彼女は少し照れたように笑い、
「結婚するんだぁ」
「……え、あ、え? アクマと?」
「ほかに居ないよお」
「そうよだね」
そうして少し間を置いてから、「おめでとう」とスマイルは呟く。ムー子は恥ずかしそうに笑いながらうなずいた。