「ん…っ」
濡れてはりつく髪を指で掻き上げ、唇で耳の裏をくすぐった。メガネに滴がついてしまったがそれは無視して、唇と鼻先だけでスマイルの首筋をたどっていく。スマイルは時々小さく声をあげ、そのたびに佐久間の手を強く握り返した。
佐久間は不意に顔を上げて、
「もう一回、ど?」
「――もう帰れよぉ」
スマイルは苦い顔でそう言い、握り合った手を振りほどいた。佐久間はけらけらと笑いながらティッシュでメガネの滴を拭き取る。
「泊めてくんないんすかぁ?」
甘えたような声でそう聞くと、スマイルは返答に困って佐久間を見た。
これまでにも何度か泊まったことはあるし、これからまた寒いなかを一人で歩いて帰るのは少しむなしい。佐久間はメガネをかけ直して、どうよ、と問うようにスマイルをみつめる。
「別に――」
不意に携帯が鳴り出した。二人は音の方へと顔を向ける。
「呼び出しだよ」
「へえへえ」
佐久間は嫌々ながらコタツを抜け出して上着を探った。番号を見るが登録にはないものだ。誰だろうと思いながら通話ボタンを押し、「もしもし?」と声をかけると、
『アクマ?』
どこか聞き覚えのある声で男がそう聞いた。
「…そうだけど、誰?」
『いとしのペコちゃんですよ〜』
「………あぁ!? マジ!?」
驚きの声を上げて佐久間は思わずスマイルに振り返る。何事かとスマイルもびっくりしてこちらを見ていたが、説明してやることは出来なかった。
「なんだよお前、どっからかけてんの」
『んー、駅の近くの公衆電話。飯食いに出たついでに、ちっとな』
「え、なに、日本帰ってきたのか?」
『そ。ビザの申請で戻ってきたんよ。アクマ、今どこ居んの』
「いや、俺は…まだ外なんだけどさ…」
どうやらスマイルにも事情が伝わったようだ。驚きのせいか、少しばかり硬い表情でこちらをじっとみつめている。
『なに、仕事帰り?』
「おお。なんだ、いつ帰ってきたんだよ」
『昨日の夕方。もー飛行機が揺れてよぉ、オイラの人生ここでおしまいか? って、ちっとびびったわ』
「バーカ、てめぇみてーのがそう簡単に死ぬかってんだ」
一年振りに聞くペコの声だった。相変わらず元気そうで安心する。
『今度久し振りに飯でも食いましょうや。多分十日ぐらいは日本に居るしよ』
「いいぜ。週末だったら今んとこ暇だしよ。酒でも飲んでだらだらと」
『いっすねぇ』
「…スマイルには?」
『あ?』
部屋のなかの沈黙が妙に痛かった。
「連絡したのかよ」
していないのはわかっている。もしそんなことがあれば真っ先に教えてもらっていた筈だ。案の定ペコは『まだ』とあっけらかんと答えた。
『これからしようと思ってたとこっすよ。あいつ、携帯変えたかなぁ』
「俺が知るかよ。家に電話すりゃ出んじゃねえの?」
『だな。かけてみるわ』
俺よりまずそっち先に電話しろと思ったが、口には出せなかった。そうして週末会う約束をして佐久間は終了ボタンを押した。携帯を上着にしまっていると、
「――ペコ?」
「おお。昨日帰ってきたってよ」
「そう…」
スマイルはコタツに両手を入れてぼんやりとテーブルの上をみつめている。いささか気まずい沈黙が流れたあと、突然スマイルの家の電話が鳴り出した。
何故かスマイルはすぐには動かなかった。
「ペコだぜ、多分」
「…わかってる」
素っ気無く呟くとスマイルはコタツを抜けた。こちらに背を向けるようにして受話器を上げ、「もしもし?」とやや硬い口調で言う。
「――ペコ? うん、…久し振り」
戸惑ったようなスマイルの声を聞きながら、演技の下手な奴だなと佐久間は苦笑する。そうして煙草を拾うと上着のポケットに突っ込み、そのまま袖を通した。
話を続けるスマイルの脇に立って軽く手を上げると、
「あ、あ――ごめん、ちょっと待ってて」
電話に向かってそう言い、驚いた顔をしながら振り向いた。
「帰るの?」
受話口を手で押さえて小声で聞いてくる。
「明日早ぇんだわ。悪ぃから帰るよ」
「そう…」
そうして電話に戻りながら、ふとすがるように伸ばされたスマイルの手を思わず握り返し、
「もしもし、ごめん。――え? …違うよ、バカ」
電話の向こうに笑いかけるその横顔に、何故かひどく嫉妬した。
佐久間は一度強くスマイルの手を握り、そのまま振り返りもせずに玄関へ向かう。外の空気は冷え込んでおり、あわてて上着の前をかきあわせた。
大きく息をついて、やけに星のきれいな夜空を見上げる。
――帰るか。
明日もまた仕事だ。
九時を回った。さすがに体が冷えてきた。コンクリートで塗られたアパートの通路をぼんやりと見下ろしていたムー子は、ゆっくりと立ち上がって大きく伸びをした。
「…帰ろ」
ぽつりと呟いて、もう一度だけ名残惜しそうに佐久間の部屋のドアをみつめる。
「――あれ?」
振り返った瞬間、すぐそこに佐久間がくわえ煙草で立っていた。
「お帰り」
「…おう、ただいま」
煙草の灰を叩き落し、びっくりしたような表情でこちらをみつめている。
「あんだよ、ずっと待ってたんか?」
「うん。あ、でも三十分ぐらいだよ」
「電話すりゃ良かったんによ」
「しようとしたら、電源なくなってた」
「なっさけな」
足元に煙草を落としてもみ消しながら佐久間が笑う。少しむくれたような顔をすると、「怒んなよ」と言いながらこちらに向かって歩いてきた。ムー子は無言で佐久間に抱きつき、温もりを求めるようにぎゅうと腕に力を込める。
「冷えてますね」
「うん。ちょっと寒い」
「…あと十分ぐらい我慢出来っか?」
「十分? 平気だよ」
「なんか、あったかいもんでも食い行こうぜ」
「うん!」
そうして二人は夜道へと歩き出す。しばらくのあいだムー子はポケットに突っ込まれた佐久間の腕をみつめていたが、やがて、
「マー君、手ぇつないでもいーい?」
そう聞いた。
佐久間は驚いたように振り返り、足を止める。そうしてポケットから手を出すと、ムー子に向かって差し出した。
「どうぞ」
なにを今更といったふうな顔だ。ムー子は照れたように小さく笑い、佐久間の手を握る。それはひどく温かく、思わず歓喜の声を洩らしてしまう。
「あんでいちいち聞くのよ」
また歩き出すと、不意に佐久間が聞いた。
「なんとなく。たまには」
「あっそ」
「うん」
佐久間の手の温もりを感じながら、こういうのがあるなら寒いのも悪くないなぁとムー子はぼんやり考えていた。
「変な奴」
「うるさーい」
八時を過ぎる頃には飲み屋のなかは喧騒であふれ返っていた。座敷の隅に追いやられた三人は、あちこちであがる大きな笑い声や拍手の音に気を抜かれながらも、こぢんまりと和やかな飲み会を続けていた。
「ペコさん一気、いきまーっす」
「いらんわ、バカ」
グラスをかかげたペコの後ろ頭をはたき、佐久間は障子の閉められた窓枠に寄りかかりながら煙草の煙を吐き出した。
「あんだよアクマ、オイラの勇姿をスマイルに見せようとしただけじゃんか」
「んなもん勇姿でもなんでもねえや。だいたいテメーみてぇに酒の弱い人間が一気して、ぶっ潰れたら大変なのはこっちなんだからな。大概にしやがれ」
「へーい」
佐久間に叱られ、仕方なくペコはちびちびとサワーを口に運ぶ。だいたいサワーで一気って、なんだよそれ――と、佐久間はいささか呆れたようにそう思う。そうして二人の向かいでやけに静かにビールを飲むスマイルの顔をちらりと見、なんか居心地悪ぃ、と内心呟いた。
考えてみればこうして三人が揃うのは本当に久し振りのことである。もっと盛り上がってもいい筈なのだが、どことなくすきま風が入り込んでくるような感じで、佐久間はなんだか落ち着かない。
「どーよ、ドイツの生活は」
煙草を灰皿に置き、ジョッキを持ち上げながら佐久間は聞いた。
「寒ぃ」
「そんだけかい」
「つーかさ、夏が暑くねえんだわ。カラッとしてて過ごしやすくってさ、夜なんか下手すっと寒くってさあ、なんか物足んねえんだよなー」
「向こうでラムネって売ってるの?」
「ない」
「あったらすげぇわな」
俺が仕入れて売ろうかなとペコが呟いている。こいつだったら売る前に全部自分で飲みそうだなと思いながら佐久間はビールを飲み干す。そうして底が近くなったスマイルのジョッキを指差し、
「お前も頼む?」
「え? あ――うん」
スマイルはメニューを開いてドリンクの一覧を眺めている。その隙に佐久間は手を上げて店員を呼んだ。