「ちょっと、早いかなぁとも思ったんだけど」
「うーん、まあ確かにね。早い方だよね。でも女の人は十六で結婚出来るし」
そう言ってスマイルは自分の家へ向かう曲がり角を通り過ぎ、
「僕の母親は十七歳の時に僕を産んだしね」
「えー、そうなの!? すごい、ヤンママだぁ」
「まあ、当時はなんて言ったか知らないけど」
苦笑して、ふと足元に視線を落とした。
「いいんじゃないの。人それぞれだよ」
「うん…」
何故かムー子も沈んだ表情になる。うかがうように横顔を見ると、ムー子はためらいがちに、
「ウソ」
と呟いた。
「え?」
「ウソ。そんな話、全然ない」
「…そうなの?」
「うん」
しばらくのあいだ、二人のあいだに沈黙が流れた。
「でも、もう結構長いよね」
「うん。三年ぐらい、かな。だけどそんな話、これっぽっちも出たことないんだ。まあ当然なんだろうけど」
「……」
「たまぁにね、」
信号で立ち止まりながら、ムー子はガードレールの支柱を軽くサンダルで蹴りつける。
「マー君の友達とかに、嫉妬しちゃうんだ」
「…って、僕とか、ってこと?」
「うん。そう」
「なんで?」
「…なんかね、あたしと居る時より楽しいんじゃないかなって思うんだ。気楽そうでさ、なんか、マー君の友達とかと一緒に遊んでても、男同士じゃないとわからない部分があるんだなぁって。…ずるいなあって思う」
「ふうん…」
「結婚したら、ちょっとは安心出来るかなって」
そう言ってムー子はどこか寂しそうに笑った。そんなものかとスマイルは考える。
「でもそれはさ、反対も有りうるよ、きっと。彼女の前でしか見せない部分っていうのもあるんじゃないかな」
「…そっかなあ」
「わからないけど」
そう。
恐らく良く知っているつもりで居ても、結局のところは佐久間のなにも知らないのだ。付き合いが長いというだけで、ある程度はどんな人間か想像がつくが、それが絶対であるとは言い切れない。自分も佐久間やペコに向かって全てをさらけ出しているわけではない。「多分こうだろう」という錯覚の上で付き合いを続けていると言われても、否定出来る材料はなかった。そして多分、それが真実なのだ。
お互いの幻を見ながら、霧のなかを手探りしているかのようなあやふやな「今」。なにも頼りに出来るものはなく、なにも確かなものはない。
気が付くと二人は、佐久間のアパートのすぐそばまでやって来ていた。結局来ちゃったなと思いながらスマイルはムー子のあとに続く。そうして部屋の明かりが確認出来るほど近くへ行くと、突然ムー子が道路を駆け出した。
「――あ、煙草」
ドアを開けようとして佐久間は空のポケットを探り、テーブルに振り返る。靴を脱ぐのが面倒で一瞬だけ迷ったが、
「だーもう、めんどくせぇなあ」
俺のバカ、と呟いて部屋に戻った。そうして煙草のパッケージのなかをのぞいて残り本数を確認していると、突然部屋の呼び鈴が鳴らされた。
「はい?」
煙草とライターをポケットに突っ込みながら玄関へ向かう。
「開いてまっせ」
冗談のように言い、靴に足を入れたとたん、勢い良く扉が開いた。
少し息を切らせながらムー子が立っていた。
「――あ? あれ?」
「マー君、今誰待ってたの」
「は?」
その後ろから見覚えのある姿が現れて、佐久間は更に訳がわからなくなる。
「…こんばんは」
「え? あ、スマイル? え、なんでお前ら――」
「今、誰待ってた?」
有無を言わせぬ勢いでムー子はそう聞き、ずい、と玄関に入り込んできた。
「…別に、誰も待ってやしねえけど、」
「じゃあどこ行くつもりだった?」
「んなの、どこだっていいじゃねえか。なんだよお前ら、仲良く示し合わせてお出かけか?」
「いや、たまたま駅で会っただけなんだけどさ」
そう言ってスマイルは困ったように笑う。
「あっそ。――んで、あなた様はなにしに来たんです」
「そうゆう言い方はないでしょお」
ムー子はまるで駄々っ子のように足を踏み鳴らした。
「だーもう、悪かったよ。飯食いにでも行こうかと思ってたんだよ。んで、ちょうど出ようとしたらお前らが来て――」
「アクマ」
声に顔を上げると、通路の明かりに照らされながらスマイルが軽く手を上げていた。
「僕、帰るね」
「え? あ、おぉ」
佐久間はあわててムー子の脇をすり抜けて玄関から身を乗り出し、
「…悪ぃな」
「いいよ、別に」
悪びれた様子もなくスマイルは笑い、ムー子に向かって「じゃあね」と手を振った。
「ありがとね」
「どういたしまして」
スマイルが道路を渡るのを見送り、佐久間は扉を閉めた。そうして玄関口に座り込み、恋人の姿を見上げる。
「…飯をね、食いに行こうと思ってたんすよ」
「一人で?」
「一人で」
「ホントに?」
「本当に」
思わず深いため息をついてしまう。
「……それ確かめる為だけに来たのか」
「…うん」
「暇人だなぁお前」
「だって、」
「だって、なに」
佐久間は少しばかりいらいらと聞き返し、煙草を取り出して火をつける。そうして恋人の顔をのぞきこむと、叱られた子供のような目でこちらを見下ろしていた。
「…最近マー君、冷たいし」
「んなこたねえよ」
「…誰か、好きな人でも、出来たんじゃないかって――」
懐かしい言葉だ。思わず佐久間は吹き出した。
「俺が浮気してると思ったわけだ」
「……浮気って言うか、」
「私に飽きたんじゃないかと、そう思ったわけだ」
「…うん」
「バカ野郎が」
――そうか?
佐久間は目の前にある恋人の手を握り、力弱く握り返され、煙を吐き出しながらもう一度自分に問いかける。
――違うのか?
「あのな」
煙草の灰を叩き落し、恋人の手に向かって佐久間は語りかけた。
「三月に人員整理があったってのは、話したよな」
「うん」
「そんで人数少ない上に仕事量は変わらないわけよ。したら、結果忙しくなるのは当たり前っしょ?」
「うん…」
「それだけよ」
「…ホントに?」
「ホントに」
「……わかった。…ごめん」
「いいよ、もう」
あとでスマイルにメールをしよう。そんなことを考えながら佐久間はムー子の冷たい手の感触を味わっている。味わいながら、いややっぱりしない方がいいのかな、そんなことを考え、
――どうなんだ?
「…悪ぃけど、今日は帰ってくんねえか」
「え…」
ムー子はなにか言おうと口を開きかけたが、上手い言葉がみつからないようだった。
「…マー君、怒った?」
「いや、別に怒っちゃいねえけど、」
必要以上に刺激しないよう、佐久間は穏やかな顔でムー子の姿を見上げた。
「ちっとさ、気ぃ抜けたっつうか、疲れちまってさ、今日は相手してやれそうにねえわ」
「…あたしのせい?」
「その通りじゃ!」
佐久間は煙草を足元に落とし、笑いながら勢い良くムー子の頬をつねる。痛い痛いとムー子も笑いを返し、
「わかった。帰るね」
そう言って佐久間の首に抱きついた。
「気ぃ付けてな」
「うん」
「…日曜、どっか行きますか」
「うん! またメールするね」
「おお。じゃあな」
「おやすみ」
軽くキスをして、扉が閉まるまで佐久間は手を振り続ける。足音が去っていくのをぼんやりと聞きながら、落とした煙草を足でもみ消した。そうして吸殻を拾い、立ち上がり、扉に鍵を閉めて部屋へと戻る。
灰皿に吸殻を放り込み、上着を羽織ったまま布団になだれこんだ。そうして見るともなしに天井を見上げて大きくため息をつく。
目覚まし時計の秒針だけがやけに耳に突き刺さる、不思議と静かな夜だった。佐久間は薄掛けの布団を頭からかぶり、あわててメガネを外してもう一度布団のなかにもぐりこむ。
腹が減った。
「――知るか、ちくしょーっっ!!」
咆哮をあげるのは久し振りのことだった。
出口なし/2004.10.06