手元をなにかにぶつけ、スマイルはコーヒーの缶を取り落としてしまう。壁に手をついて足元を見下ろしていると、不意に佐久間に腕を握られた。顔を上げると、遠い外灯の逆光のなかで佐久間が唇を寄せてきていた。
ほんの少し抵抗を覚えながらもスマイルはその唇を受け、そのまま軽く抱き合いながら何度か口付けを交わした。
シャツの裾に手が差し込まれて思わずびくりと体を震わせる。やがて手が胸元にまわり、スマイルはあわてて唇を離した。
「や…っ」
悲鳴をふさぐようにまた佐久間が唇を重ねてくる。かすかにうなり声をあげてその手をつかむが、反対につかみ返されて壁に押し付けられた。そうしてもう一方の手がまた胸元をまさぐり始める。突起に指が触れて思わず顔をそむけた。
「ちょっと、」
聞いているのかいないのか、佐久間は首筋をきつく吸い上げて耳の内側を舌でくすぐる。そして同時に突起を指でつまみあげられて、
「やだ…!」
とうとうスマイルは悲鳴をあげた。
「――」
不意に佐久間の動きが止まった。半ば恐怖の為に息を乱しながら、スマイルはじっと佐久間の様子をうかがっている。佐久間はゆっくりと顔を上げてスマイルの目をのぞき込み、
「嫌か…?」
「やだよ」
なんでそんな当たり前のことを聞くのかわからない。
佐久間はしばらく黙り込んだあと、小さく「そうだよなぁ…」と呟いた。そうしてスマイルの肩にあごを乗せ、つかんでいた腕を離してゆるゆると抱きしめてきた。
「アクマ…?」
いつもの彼らしくないそんな姿にひどく戸惑った。抱きしめられ、同じようにゆるく抱き返し、
「…どうしたの」
「……」
佐久間はなにも答えない。二人はしばらくのあいだ、互いに言葉もなく抱き合っていた。なんと声をかければいいのかスマイルにはわからなかった。いつもなら気にならない筈の静寂が、なんだか怖くてたまらなかった。
「――帰るわ」
不意にそう呟いた。
「うん…」
佐久間はゆっくりと顔を上げ、それでも少し迷うようにスマイルの髪を梳き、やけにやさしく口付けてくる。そうしてそのままスマイルの手を握り、廃屋の外へと連れ出してくれた。
「またメールするわ」
門扉を閉めながら佐久間が言う。
「今度はもちっとゆっくり飲みましょうや」
「大丈夫? 具合悪いの?」
「別に――そういうわけじゃねえんだけどよ」
苦笑して、ふとためらいながら手を伸ばしてきた。そうしてまたスマイルの髪を梳き、じっとなにかを考え込むような目をする。わずかにうつむいた時、暗がりに沈んだその表情がひどく冷たいものに見えて、スマイルは一瞬目を見張った。だが次の瞬間にはその表情は消えていた。かすかに笑いながら唇を寄せてきて、触れるだけのキスをする。
「じゃあな」
「おやすみ――」
離れていく手をみつめ、スマイルはじっとその場に立ち尽くしている。何故だかしばらく動くことは出来なかった。
――ほっとけば良かった。あとになってそう思った。
◇◇だけどそんなことは大抵終わってから気が付くもんだ。
◇◇そうして、だいたいそんな時は、取り返しがつかないところまで行っちまってる。
ひどく暑い一日だった。
前日は一日中強い雨が降り続き、それが梅雨の最後の知らせとなった。夜が明けると青空が広がっていた。いきなり都心で真夏日を観測した、七月最初の水曜日の晩だった。
「は……ぁ、あ…っ!」
激しい突き上げにスマイルは我を忘れて悲鳴をあげ続けている。シーツを握りしめ、欲望のおもむくままに腰を振り、口ではうわ言のように嫌だ嫌だと呟きながらも、ただ快楽を求めて体の熱を上げている。
「『嫌だ』じゃねえんだよ」
興奮の為か佐久間の声も荒々しい。髪をわしづかみにして背後から首筋に噛みつかれ、その痛みですら快感になってスマイルは甲高い悲鳴をあげた。
「なんだよ、すっげー感じてんじゃん」
「ちが…っ」
「久し振りだから溜まってたんか?」
そう言って佐久間はスマイルのものに手を伸ばす。
「やだぁ…!」
「またイキそうじゃねえか」
からかうように耳元で笑い、佐久間はやわやわと手を動かした。既に一度手でイかされていたが、反応の鈍くなっている筈のそれは再び限界近くまでのぼり詰めていた。あわてて佐久間の手をつかんで止めて、まるでむせび泣くように小さく声を洩らしながら呼吸を整えた。
「イキたくないんですか?」
わざとらしくバカ丁寧にそう聞かれ、スマイルはうんともすんとも答えられずにただ首を振った。だがそんな動作が暗がりのなかで見える筈もなく、
「言わなきゃわかんねーよ」
また髪をつかまれて頭を揺すられた。そのあいだも佐久間の手はゆるゆるとスマイルのものをもてあそんでいる。
「……イキたい…っ」
うめくようにそう答えてスマイルはシーツに顔を伏せる。体内に押し入ったままじっとして動かない佐久間の熱がもどかしくてたまらず、ついせがむように腰を動かしてしまう。あえぐように息を吸い、洩れ出る悲鳴を必死になってこらえていた。
佐久間は小さく鼻を鳴らし、ものを引き抜くとスマイルの体を仰向けにして再び侵入した。スマイルはすがりつくように首に両手を回してキスをせがみ、
「今日、すっごい意地悪だ」
鼻にかかった甘えた声で非難するようにそう言った。
「誰かさんのせいでな」
佐久間はそう言って小さく笑う。そうして突き上げ始めた。一瞬にしてまた快感の波に呑み込まれ、佐久間の背中に爪を立ててわけもわからず声をあげた。
蒸し暑い空気がねっとりとからみつく。互いに全身汗まみれとなっており、手を触れた瞬間のべた付く感触がどういうわけか更に情欲を掻き立てた。泥のように溶け合ってなにもわからないまま一つになりたいとぼんやり思う。思ううちに、やがて終わりの地点がうっすらと見えてきて、
「…あ、あ――や、やだ、や…っ、」
首をのけぞらせて無意識のうちに足を開き、最大限に快楽を得られる場所を探し始める。
不意に佐久間が片手をつかんで下半身へと導いた。
「イキたきゃ自分でしてみろよ」
「やだ…!」
スマイルはあわてて腕を引き、恍惚のさなかから現実に引き戻された遣る瀬無さに、思わずうめき声をあげた。
「もうやだ、アクマ嫌い」
涙声でそう言うと、
「知ってるよ」
ぽつりと呟いて、また笑った。
そのあとはよく覚えていない。唇が重ねられてむさぼるように舌を絡ませ、互いに熱い息を吐いて高みを目指して走り続けた。佐久間の首にしがみついてまた声をあげ、ただ快楽の渦に呑み込まれながら、胸がふさぐようなひどい苦しみを味わっていた。
熱を吐き出すと同時に胸に詰まっていた苦しさは消え失せたが、それがなんだか寂しくてたまらなかった。知らずのうちに涙を流しながら、何度も何度もキスをせがんだ。髪を梳く佐久間のいつもの手の感触に安堵してまたキスをせがみ、苦笑されながら、初めて佐久間を好きだと気付いた。