扇風機が部屋のなかの蒸し暑い空気をかき回している。佐久間は枕に頭を乗せたまま煙草をふかしていたが、やがて起き上がると取り込んだままほったらかしにしてある洗濯物を探り、薄手のシャツを引っぱり出した。
 暑くてたまらないが袖を通してとりあえずボタンをはめる。そうしてタオルで顔を拭き、風呂場から出てきたスマイルの姿を見上げた。
「あっつー」
「冷蔵庫にビールあるぞ」
「もらう」
 煙草を消しながら缶を受け取り、フタを開けて喉の奥へと流し込む。
「いくら飲んでも、全部汗で出てっちゃう感じだね」
「おぉ。いきなり暑ぃやな」
 これじゃ真夏だよとスマイルはぼやき、扇風機の前に陣取った。
「そんなの着て、暑くないの?」
 下着の上にシャツだけ羽織っているのを見て、スマイルが笑う。
「なんにも着てねえと汗がたまるんだよ。まだなんか着てる方が楽でいい」
 そう言って佐久間はあごの下の汗を腕で拭った。
 スマイルは一口飲んで缶をテーブルに置き、佐久間のななめ脇の位置に腰をおろした。そうしてテーブルに頬杖を突くようにしてこちらをじっとみつめ、不意ににやにやと笑い出した。
「…あに笑ってんだよ、気色悪ぃな」
「別に」
 ごまかすようにそう言ってスマイルはまた缶に手を伸ばす。そうして再び扇風機へと顔を向けると、メガネを外して吹きつける風に目を細めた。
 佐久間は肩をすくめると履いていたジーパンのポケットを探って財布を抜いた。なかから一万円札を二枚取り出し、テーブルに広げて更に風で飛ばされぬよう上にライターを置いた。
「ほい」
 そう言うと、スマイルはメガネをかけながら不思議そうな顔つきで振り返った。佐久間はあごで金を示し、かすかに笑ってスマイルをみつめた。
「…なにこれ。パシリでもしろっての?」
「違うよ。――やるよ」
「……え、え? なんで?」
 スマイルは戸惑ったように佐久間の顔を見返す。
「小遣い」
「――え、ホントに? なんで? 宝くじでも当たった?」
「別に当たっちゃいねえけど、」
 そう言って佐久間は苦笑し、
「タダでヤラせてもらうのは心苦しいからな」
 スマイルの笑顔が凍りついた。
 佐久間はじっとその顔をみつめ、再びあごで金を示す。
 スマイルは動かない。
「……なんだよ、それ」
 まだ言葉の意味が理解出来ないといったふうに、少しだけ引きつった笑顔のままスマイルが呟いた。
 佐久間はすぐには返事をせず、テーブルに放り出してあった別のライターを使って煙草に火をつけた。そうして一度深く吸い込み、天井へ向けて煙を吐き出す。
「男にヤラれて、金でももらわなきゃやってらんねーだろ?」
「……」
「早く取れよ」
「…なにふざけてるんだよ」
「別にふざけちゃいねえよ」
 小さく笑って灰を叩き落す。
「まぁ今までの分は追々払ってくからよ。とりあえずそれで勘弁してくれや」
「――っ」
 不意に胸倉をつかみあげられた。怒りで釣りあがった目に睨みつけられ、佐久間は、こいつホントに色素薄いよなぁと、スマイルの茶色の瞳を見返しながらまるで無関係なことを考えていた。
「……冗談だよな?」
 押し殺した声でスマイルがそう聞いた。佐久間は一度煙草を吸い込み、そのスマイルの顔に向かって煙を吹きかけた。
「冗談で男に抱かれんのかよ」
 そうして、今度金取るっつってたじゃねえかと付け足して、また笑う。
「あれは――」
「早い話がエンコーだろ? 俺ぁいいぜ。金払えばヤラしてくれるってんなら、そんぐらいの金はなんとかするしよ」
 そう言って喉の奥でこもった笑い声をあげながら、佐久間は無性に泣きたくなった。
 こんなことを言う為に呼んだんじゃない、こんなふうに傷つけることなんか望んではいなかった。その筈なのに。
 スマイルは言葉を失って唇をわずかに震わせている。言い返す言葉を必死で探しているその目を見ながら、今一番聞きたい言葉を佐久間は奥歯で噛みしめていた。
 ――誰を見てた?
 俺と向き合いながら誰と会ってるつもりで居た?
 どのみち答えなど聞かなくても最初からわかっている。ずっと感じていた違和感の原因。
 今ドイツに居るあの男以外に、誰がこいつを笑わせられるってんだ――。
「…ふざけるのもいい加減にしろよ」
 ようやくのことでスマイルはそれだけの言葉を喉の奥から引き出した。
「だからふざけちゃいねえって」
「だいたい、」
 スマイルは一度言葉を飲み込み、
「――先にちょっかい出してきたのはそっちの方だろ」
 佐久間は思わず吹き出した。
「ちょっかいったって、俺ぁ別に」
 そうしてふと視線をそらせる。
「ただ、どっかの兄ちゃんが落とし前のつけ方教えてくれっつうからよ」
『…ねえ、』
「だから教えてやっただけじゃねえか」
 ――あの日もひどく暑かった。むせ返るような息苦しさのなかで抱き合った。じっとしてても汗が吹き出て、セミがやかましいほどに鳴いていて、
『落とし前って、どうやってつけるの』
 めまいがする――。
「――ああ、そう」
 怒りに満ちたスマイルの声で振り返る。端正な顔が白く凍りついており、もう戻れない場所へ来てしまったことを佐久間は悟った。
「だったら好きにすればいいだろ、幾らでも落とし前つけてやるよ。――誰がこんなもの…!」
 そう言って佐久間の胸倉を離すと、スマイルは金をライターごと握りしめて床に叩きつけた。怒りの為に息を乱し、こぶしに握った手が震えている。
 佐久間は床に跳ねて飛んでいった金の行方をみつめ、スマイルの横顔に視線を移し、手を伸ばしてメガネに触れた。驚いて振り返ったスマイルは大きく目を見開いてじっと佐久間の顔を凝視していた。その目がわずかに涙ぐんでいるようにも見えたが、はっきりと確かめないままメガネを外し、テーブルに置くと、濡れたままの髪をつかんで床に引き倒した。
 スマイルは一言も声を洩らさなかった。


――この時からスマイルが目をあわさなくなった。話しかけても殆ど喋らなくなった。
◇◇笑顔が消えた。
◇◇…別に、それが望みだったわけじゃねえんだけど。


 帰り、道端で少し吐いた。
 ねっとりとからみつくような空気は深夜になってもなくならず、家までの道のりがひどく遠いものに感じられて、スマイルは茫然と立ち尽くした。どれだけ歩いても絶対に帰り着けないような気がした。


めまい/2004.10.27


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