「ねえ、今度ショウブ見に行かない?」
突然ムー子がそう言った。佐久間は煙草に手を伸ばしながら聞き返す。
「ショウブってなんのショウブよ。馬? 自転車?」
「もー、そっちじゃなくって、花菖蒲。今ぐらいが時期なんだって。このあいだ雑誌に書いてあった」
「別に構わねえけど…」
煙草に火をつけ、一度深く吸い込みながらスマイルの姿を思い浮かべた。そうして、どうしているかと胸の奥でなにかがざわついているのを、佐久間はじっとみつめている。
近頃、いろんなものがすっきりしない。
――俺らしくねえ。
ため息のように煙を吐き出した。
その日のスマイルは珍しく酔っていた。
梅雨の合い間の少し蒸し暑い晩だった。久し振りに佐久間と会って酒を飲んだ。冷房の効いた飲み屋の店内でビールのジョッキを次々と空にし、持参した雑誌を開いてじいっとペコの姿を嬉しそうに眺めている。そんな自分の姿を、少し笑いながら眺めている佐久間のことには、気付きもしなかった。
「すごいよね、こんなにすぐに雑誌に載っちゃうんだね」
昔から愛読している卓球専門の雑誌だ。開いたページではペコの移籍の件が特集されている。
「月刊誌だからだろ」
そう言って佐久間はジョッキを口に運ぶ。
「っつうか、ずっと持ち歩いてんのか」
「今日はたまたま。大学の友達にペコのこと話したら見たいって言うからさ」
「へえ」
大学の授業を終え、家庭教師のバイトの最中に佐久間からメールが入った。帰り際、駅で待ち合わせて店に入った。久し振りに会えたことが嬉しくもあり気恥ずかしくもあり、スマイルは佐久間の視線から逃れるようにずっと雑誌に目を落としていた。
「ちっと見せろや」
佐久間の手が伸びてくる。スマイルは雑誌を渡してジョッキに手をかけ、誌面を読みふける佐久間の顔をぼんやりとみつめた。
「まぁ確かに、『リーチかかった』状態だぁな」
そう言って佐久間は黒縁メガネの奥でおかしそうに笑った。
「一年で一部に行くなんて思わなかった」
「そっか?」
意外そうな顔をされて、スマイルは一瞬だけ言葉に詰まる。
「…行ったら、すごいなとは思ってたけど」
ごまかすように小さく笑いながら。
「ホントに、すごいよね、ペコって」
「…おぉ」
静かにうなずいて佐久間が雑誌を返してよこす。スマイルはそれを荷物の上に放り、あらためて佐久間と向かい合った。
「仕事はどう? 忙しい?」
「んー? まあな。まぁでも、今は暇な方だな。来月入るとまた少し忙しくなっけど」
「そっか。大変だね」
「夏休みに入ってくるバイトの出来に依るなぁ。――お前、マジでバイトしねぇか。お前だったらなんでもそつなくこなしそうだしな」
「なんだよ、それ」
苦笑しながらも、少し心を動かされた。いつも顔が見られるのは魅力的だなと考え、そんなことを考えた自分にびっくりした。見ると佐久間もやや複雑な表情で笑い、言葉を失ったように手元に視線を落としていた。無造作に煙草に手を伸ばして火をつける。
少しのあいだ、形容しがたい空気が二人を包み込んでいた。店内の騒がしさとは裏腹に少し緊張したような感じがあり、だけどそれは何故かひどく心地良かった。スマイルは煙草をはさんだ佐久間の手をみつめ、ここに居るなぁと今更のように実感する。
「――そろそろ行くか?」
「うん」
立ち上がりかけた時、佐久間が「その前にトイレ」と言って席を立った。スマイルは上げかけた腰をおろし、雑誌をしまおうとしてまた開いてしまう。
おかっぱだった髪の毛を短く刈り込んだ為に、ぱっと見はだいぶ印象が変わってしまった。だが写真のなかの自信に満ち溢れた笑顔は、ずっと昔から見慣れたそれと変わっていない。スマイルはそっと指先でペコの顔を撫でた。本当に一歩ずつだが、望んだ場所へと着実にたどり着きつつある友人の姿が、ひどく誇らしくてたまらなかった。
――頑張れ。
心のなかでそっと呟き、知らずのうちに微笑んでいた。ふと人の気配に気付いて顔を上げると、テーブルの角に佐久間が立ってこちらを見下ろしていた。
「早いね」
佐久間はなにも答えなかった。
二人は店を出るとのんびりと商店街を歩いた。蒸した空気がまとわりつくように体を包み込んでおり、アルコールのせいもあってかスマイルはなんだかやけに眠かった。少しフラフラとした足取りで道を行き、途中、自販機の前で立ち止まる。
「コーヒー飲む」
そう言って財布を取り出した。
「酔ってんな」
からかうように佐久間に言われ、スマイルはボタンを押しながら「うーん」とうなり返した。
「ちょっとね。今日は飲んだね」
「ピッチ早かったよなあ」
「まあね。でも、たまにはいいよね。おめでたいこともあったし」
そう言うと、佐久間は「そうだな」と呟いた。
「あ――ねえ、」
歩き出そうとしてスマイルは足を止めた。そうしてすぐそばの路地を指差し、
「覚えてる? お化け屋敷」
「…あぁ。あったなあ、そんなの」
「まだあるのかな」
「行ってみっか」
「うん」
二人は脇道にそれて家と家とのあいだの細い路地をたどっていく。外灯もなく殆ど真っ暗な道を手探りで進んでいくと、やがて少し開けた場所に出る。その敷地の隅に、ひどく古ぼけた石造りの家が塀に囲まれて建っていた。
二人は道の切れ目に立ち尽くし、互いに言葉もなく真っ暗なその家をみつめた。
「まだあったんだね」
「いい加減、ぶっつぶされたかと思ってたけどなぁ」
佐久間はそう言いながら先に歩き出した。スマイルは足元を確かめながらゆっくりとそのあとに続いた。
この家をみつけたのはペコだった。「すっげぇお化け屋敷発見!」と嬉しそうに報告しに来たことを覚えている。当時からこの家は無人で、ずうっと古くから放置されている様子だった。三人は割れた窓から侵入し、まるで前人未踏の洞くつにでも入るかのような心持でなかを探検した。
閉じた鉄製の門に佐久間が手をかけた。軽く引くとそれは呆気なく開いた。なかを恐々とのぞき込み、息をひそめながら足を踏み入れた。塀の内側には雑草がこれでもかというほど生えている。
「すごいね」
「…こんなもんだったかなぁ」
真っ暗闇の家のなかをのぞきこみながら、不思議そうに佐久間が呟いた。
「なんか、もっとすっげーボロくってよ、それこそ死体でもありそうな雰囲気だったけどな」
「…そうだね」
子供の頃、この塀のなかにはスリルがあり秘密が隠されていた。埃まみれの家具には自分たちにはうかがい知れない大きな歴史が染み込んでいる筈で、明かされていない恐ろしい事実がひそんでいる筈だった。
同じ場所に立っていながら何故こんなにも呆気なく、ただ事実としての廃屋にしか見えないのか。確かに不思議で仕方がない。