――最初感じたのはちょっとした違和感だった。
◇◇そこにある笑顔が、なんだか気に入らなかった。それだけだ。


 スマイルはベッドのなかで身じろぐと毛布と布団を引っぱりあげた。そうして温もりに包まれて安堵のため息を吐く。と、不意に佐久間の手が背後から伸びてきて、ぺしぺしと手首の辺りを叩いた。
「お兄さん」
 そう言いながら、何度かわずらわしそうに枕の上で頭を乗せ直す。スマイルは顔だけで振り返り、「なに?」と聞いた。
「あんでそっち向いてんのよ」
「僕、こっち向きで寝るのが一番楽なんだもん」
 左側を下にして少し足を縮こませる。胎児のようなこの体勢が何故か一番落ち着いた。狭いベッドのなかでそうしてスマイルは布団にくるまり、更に後ろから抱きつくような格好で佐久間が布団にもぐりこんでいる。一度スマイルの後ろ髪を手で梳き、しばらく黙り込んだあと、不意に佐久間がうなり声を上げた。
「髪の毛がくすぐってーんだけど」
「僕関係ないし」
「てめ…っ」
 佐久間はいきなりスマイルの上着のなかに手を突っ込み、腹をくすぐり始めた。スマイルは悲鳴をあげてその手を押さえ、降参降参と笑いながら向きを変えた。
「こっち向きだと落ち着かないんだけどな」
「俺にゃ関係ねえし」
「…出てけこの野郎」
「すんません」
 くすくす笑いながら佐久間はスマイルの体を抱きしめる。同じように佐久間の背中に腕を伸ばして抱きつくと、あらためてかけ直された布団からもぞもぞと顔を出す。ひんやりとした部屋の空気が頬にかかり、温もりを求めるようにスマイルは顔を寄せた。
 一月の終わりに冷たい雨が続いた。所々みぞれが雑じってはいたが、今一歩というところで雪にならない。そんな冷たい冬の晩、初めて佐久間を部屋に泊めた。一人用のベッドに、共に身長が百八十を越えた男二人で入るのは実際かなりきついのだが、その分狭いベッドのなかで身を寄せ合い、互いの体をカイロ代わりに二人は眠りにつこうとしていた。
「なんか煙草くさい」
「そっかぁ?」
 風呂入ったのになと佐久間が呟く。
「もう体に染み込んでるんだよ。手とかさ、煙草の匂いがするもん」
「するか?」
 佐久間は自分の鼻先に指を持っていって匂いを嗅ぐ。あまりわからないようで、するかねえと首をかしげている。同じようにスマイルも鼻を鳴らし、
「なんか、うつりそう」
「うつしてやる」
「やめろっ」
 ぎゅうと抱きしめる佐久間の腕から逃れようと身をよじる。けれど腕の力はひどく強くて、もとより逃げるつもりもそれほどなく、結局向かい合ったまま二人は小さく笑いあう。
 電気も消した暗がりのなかで、佐久間の匂いはひどく強い。そっと鼻先で探るように唇が触れ、そのまま何度かキスを交わし、静かに息を吐いてスマイルは目を閉じる。髪を梳くように佐久間の指が後ろ頭を撫でている。背中に抱きついた手にわずかに力を込め、せがむように唇を触れて、もう一度だけキスをしてからスマイルは眠りに落ちた。雨は一晩中降り続いた。
 そうして目を醒ますと、今は部屋に一人きりだ。
 手元の文庫本が落ちそうになり、スマイルはあわてて引っぱりあげた。目をこすりながらあくびをし、枕元に置いてあるメガネをかけて時計を見る。四時過ぎ。なんだか小腹が空いたなと腹を押さえてベッドの上に座り直した。
 窓の外の雨はまだ続いている。
 六月に入っていきなり梅雨に突入した。毎日空はどんよりと曇り、一度降り始めると雨はなかなか止まなかった。せっかくの週末でありながら今日も朝から雨模様だ。もともと出かける用事はなかったからいいといえばいいのだが、それでも陰鬱な空気はどこかやるせない気分を掻きたてる。スマイルはまたベッドに横になり、ぼんやりと天井を見上げた。
 ――夢を見ていた。
 ほんの少しうたた寝していただけなのだが、なんだかひどくはっきりとした夢だった。覚えている。何度かああして佐久間が泊まった。最後に泊めたのはいつだったか――三月? そう、三月だ。春休み間際までだらだらと続いていた試験がようやく終わった頃、佐久間と飲みに行った。そうしていつものように部屋へ来て…。
 そのすぐあとにも一緒に飯を食いに行った。ちょうどペコから連絡をもらった日。結局あの日は泊まらずに帰ってしまった。それからは殆ど顔をあわせていない。五月に一度飯に誘われたが、ちょっとしたごたごたがあって結局食いには行けなかった。
 会いたいなと、ふと思う。
 会ったところで別になにがあるわけでもない。飯を食ったり酒を飲んだりするだけだ。ただそのあとはお決まりのようにここへ来る。そんなふうに佐久間がこの部屋に居るのを、どこか普通のことと捉えている節があった。そうして、今はここに居ないのだと考えている自分が、少しだけ怖かった。あの手に触れたいと思ってしまう自分の体が怖かった。
 なんだかおかしな感じがずっと続いている。もやもやとした、落ち着かない気分。
 こんなふうに時間を持て余している時に限って佐久間の姿が思い浮かぶ。電話をしてみたい誘惑に駆られ、テーブルの上に放り出してある携帯をちらりと見、でも今日は駄目だなと考えて目を閉じた。そうして、なにやってるんだろうと我が身を振り返り、思わず苦笑した。
 まるで浮気相手からの連絡をじっと待っているかのようだ。「日陰の身」という言葉がふと思い浮かび、あまりにバカバカしくて吹き出した。
「なんだよ、それ」
 ――バカじゃないの。
 それでも気が付くと携帯に目がいっている。誰かから電話がかかってこないかと、メールでも入らないかと、なにかを待ち焦がれてしまっている。
 雨の日は、心が重い。
 突然家の電話が鳴り出した。立ち上がるのが面倒で知らない振りをしようかとも思ったけれど、結局スマイルはのろのろと体を起こして居間へと向かった。


 佐久間はあくびと同時に雑誌を放り出した。そうしてメガネを外すとムー子の膝の上で体の向きを変え、目を閉じた。
「ねえマー君、これやっぱり攻略本ないとわかんないよ」
 ムー子はコントローラーをかちゃかちゃと動かしながら呟くようにして言う。
「ほんじゃ買えよ。――っつうか、どこ詰まってんのよ」
「時々森のなかで出てくる精霊みたいなヤツ。これなんの意味があるの?」
「あー、なんだったかなぁそれ。でも本編には関係ねえぞ」
「その関係ないところで遊ぶのが楽しいんじゃん」
「だったら攻略本なんか買わねえで、自力でクリアしなさいよ」
「それが出来たら苦労はしないの」
 なら文句言うなよと胸のうちでごちた時、不意に佐久間の携帯が鳴った。
「電話?」
「いや、メール」
 体を起こして携帯を拾い、届いたメールを確認する。スマイルからだった。

『ペコが一部リーグに移籍決まったんだって! 今電話もらった。すっごい喜んでたよ。「リーチかかりました」だってさ。』

「へえ」
 思わず呟き、小さく笑った。ムー子に「なに?」と聞かれ、
「――ヤクルトが一点入れたってさ」
「あれ? マー君ってヤクルトファンだったっけ」
「いやぁ、別にどこってわけでもねえけどな」
 そう言って、携帯の電源を切ってしまう。
「職場ですっげーファンの奴が居てさ、今日どこだかに試合見に行ってんだわ」
「へえ。――あ、特にどこってないんだったらさ、あたしと一緒に横浜ファンになろうよ」
「なんで横浜」
「だって神奈川県民だもん」
「そういうもんすか」
「そういうもんです」
「じゃあ今度俺と一緒にK−1観に行くか?」
「…それはちょっとなぁ」
「じゃあ駄目だ」
 なんでよとムー子が笑い、つられたように笑い返して佐久間はまた恋人の膝に頭を乗せる。そうしてぼんやりと携帯を見、良かったなぁと誰にともなく心のなかで呟いた。
 せっかくの日曜日だが生憎の雨降りだったので、どこへ行こうかと朝からだらだら考えながら、結局二人は建設的ななにをするでもなく週末を過ごしている。恋人は昨夜泊まった。
 こんなふうにして二人で居るのは実は久し振りのことでもあった。佐久間の方で少し仕事が忙しく、なかなか予定をあわせられずにいた。たまにきちんと土日の休みがあっても、なんとなく連絡するのが億劫になり、電話がない限りは一人でぼーっと過ごしていた。そうして、時々スマイルと会った。
 それでもきちんと顔をあわせたのは三月が最後だ。ペコが一年振りに日本へ戻ってきた時、三人で飲みに行った。それ以来まともに話していない。こんなふうに彼からメールが入ることは稀で、どちらかといえばスマイルには自分から声をかけることが多かった。
 どうしてるだろうとぼんやり思い、出来れば折り返し返事をしたかったが、こいつが居るあいだは駄目だなとムー子の手元を見上げながら佐久間は考える。考えて、その配慮がなんだかバカバカしくて、小さく苦笑した。
 ――なにやってんだ、俺。
 別にかけたっておかしいわけじゃない。スマイルのことはムー子も知っているし、ペコのことだって話してある。高校の時は一緒に試合も見に行った。なのに彼女の前でスマイルに電話をすることが何故はばかられるのか――。


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