その言葉を口にしようとするたびに有り得ない痛みを感じていた。まるでガラスの塊でも吐き出そうとしているかのようだった。それは喉の奥につっかえてなかなか容易には出そうもない。それでもスマイルは一度唾を呑み、そっと佐久間の首を抱き寄せて、血を吐くような思いでその言葉を口にした。
「――ごめんね、ペコじゃなくって」
佐久間の手が止まった。
スマイルはごまかすように笑おうとして、失敗した。かすかに涙がこぼれ落ち、悟られまいと深く息をついて小さく笑う。
「でもいいよね、暗いから見えないし」
「……」
「声聞かなかったらわかんないもんね」
「…うるせぇな」
「もう黙るよ」
そうして、また笑ってしまう。
「残念だったね」
佐久間はなにも答えない。
笑い声が泣き声に変わりかけ、突き上げによってあえぎ声へと変わる。萎えるようなこと言いやがってと佐久間は内心で舌打ちし、あらためて気力を奮い立たせようとした時、既に腹のなかは怒りで満杯になっていることに気が付いた。
首に触れるスマイルの手はひどく熱い。
「…ぁ…っ、ん、…あ…ぁっ!」
まるで自棄のように腰を打ち付けられて、こらえようとしても声が洩れてしまう。夢中になって佐久間の首にしがみつき、またキスをねだる。舌を絡ませ、快楽の渦のなかにありながらも、胸の内には巨大な空洞があった。冷たい風が吹きすさび、それが頭の芯をいつも現実に呼び戻す。
口付けを交わしながら、やっぱりあの時言っておけば良かったとスマイルは思った。そうすればこんな想いはしなくて済んだ。こんなことに互いを巻き込まずに済んだ。
「ねえ」
唇を離すと、息を乱しながらまるでうわ言のようにスマイルは呟いた。
「ペコと僕と、どっちがいい?」
言葉の最後は悲鳴となって闇のなかへと消え失せた。
激しい突き上げにただ声を洩らし、熱によってひどく敏感になった体を震わせる。佐久間の手が触れるたびにその部分が刺すように痛み、もはや快楽なのか苦痛なのか判然としない。
「ねえ」
「……っ」
「お金払えばまたしてくれる?」
「…るせぇな!」
突然頬を張られた。衝撃で目の前が一瞬真っ白になり、暗がりに慣れていた筈の目がなにも見えなくなる。痛みは一呼吸あとにやってきた。振り返ろうとした時また乱暴に口をふさがれて、恐怖にスマイルは喉を詰まらせた。
「ごちゃごちゃやかましいんだよ」
怒りを押し殺したような佐久間の呟きがすぐ鼻先で聞こえた。スマイルは未だになにが起こったのか理解出来ていなかった。軽い混乱のなかでただ佐久間の声を聞くしかなかった。
「ペコでなくて悪かっただぁ? それぁこっちの台詞だろうがよ」
「……」
「遠慮しねえであいつの名前呼んでいいんだぞ。どうせハナっから俺が相手だなんて思っちゃいねえんだろっ」
そうして乱暴に髪をつかまれて何度か布団に叩きつけられた。スマイルはめまいと吐き気をこらえながら腕を伸ばすが、反対に囚われてギリギリとつかみあげられてしまう。
「…どうせあいつにゃ勝てねえよ…!」
わずかにしゃくり上げる声が聞こえ、力任せに腕を投げつけられた。なにか硬いものに手がぶつかり、それ以上の痛みが下半身で起こった。スマイルは逃げようともがいたが足を抱えられて思うように動けず、
――なんだよ、それ。
快感は一瞬にして消え失せていた。
体中の熱が音を立てて引いていくのがわかった。悪寒が背筋を這い上がり、突き上げられてももはや痛みしか感じられず、スマイルは言葉もなく首を振り続けた。
――なにしてるんだ。
否定の言葉を口にしようとしながらも、声が出せない。震える腕で首に抱きつくと、佐久間は動きを止めてじっと息を凝らし、口元に耳を寄せてきた。
「言えよ」
「……」
スマイルはなにを言えばいいのかわからなくなり、ただ唇を震わせた。佐久間の体はまだ熱い。汗を指で拭い、吐き気をこらえながら言葉を口にしようとして声にならず、スマイルは嫌々をするように首を振った。佐久間は苛立たしげにまた髪をつかんで布団に叩きつける。
喉の奥にまたあの塊を感じていた。吐き出そうとすれば今度こそ本当に血を吐くかも知れなかった。
『遠慮しねえで』
そんなこと、考えたこともなかったのに。
佐久間の怒りに満ちた息遣いがすぐそばにあった。暗がりのなかで恐る恐る顔を上げて、震える指でそっと顔を撫でさすり、
「……ペコ…っ」
佐久間のうめき声を止めようとするかの如く、スマイルは思いっきり首にしがみついていた。ごめんと謝ろうとした口が思うように動かせず、奥歯を噛みしめながらきつく抱きつくことしか出来なかった。
「…離せよ」
「やだ」
わずらわしそうに腕を押さえつけられ、引っ掻くようにして剥がされそうになる。スマイルは拒絶の言葉を口にすることも出来ず、ただバカのように抗議のうなり声を上げ続けた。
「動けねぇだろ」
「やだ…!」
叫ぶと同時に、なにかの堰が切れた。
目を見開き、暗がりをみつめ、涙がこぼれ落ちて初めて自分が泣いているということに気が付いた。佐久間の息を呑む声が自分の大きな泣き声にかき消されるのを聞き、バカじゃないかとあわてて泣き止もうと口を閉じて、また泣いた。
こらえようとしても嗚咽は止まなかった。すがるように佐久間の首にしがみつき、その温もりを感じながらただ泣いた。泣き声を耳にするたびに自分がひどく情けなくなり、泣き止もうと思えば思うほどに胸のなかのものがあふれ出してきて、どうしても涙を止めることが出来なかった。
何故泣いているのか自分でもわからなかった。
ただ悲しかった。
どれほどのあいだ、そうして泣き続けたのかわからなかった。気が付くと佐久間の指がゆっくりと髪を梳いており、自分のしゃくり上げる声が段々と小さくなっていくのを、スマイルはどこか遠い世界の出来事のように聞いていた。
わずかに顔の位置をずらして涙を拭い、力の入れすぎで固まってしまった腕から徐々に力を抜いてゆく。佐久間が少しだけ体を起こしてこちらを見下ろしてきた。
「……アクマ」
「あ?」
喉が嗄れて、声も容易に出せない。
「…喉、渇いた」
「…水でいいか」
「うん…」
ずるりと、今更のようにものが引き抜かれたが、感じられたのは寒さばかりだった。無造作にかけられた毛布のなかに身をひそませ、暗がりを探って服を身につけている佐久間の気配をぼんやりと見上げる。
「電気つけるぞ」
声と同時に閃光がまたたき、スマイルは痛さに目をつむった。明かりに目を慣れさせつつゆっくりとまぶたを開けてゆく。メガネをかけながら台所へと歩いていく佐久間の後ろ姿をみつめ、のろのろと体を起こして下着を身につけた。それ以上はなにもする気になれず、毛布にくるまったままコタツに足を入れた。
ただ泣いただけなのにひどく疲れていた。少し気を許したらこのまま眠ってしまいそうだった。
「…ほれ」
佐久間はそう言ってスマイルの目の前に水の入ったグラスを置いた。そうしてトイレに消えた。スマイルは毛布の裾から手を出してグラスを握り、一口二口飲んで、また手を毛布のなかへとしまってしまう。
そのまま、ぼんやりとグラスを見下ろしていた。メガネがどこにあるのか探すのも面倒だった。
トイレから佐久間が出てきてコタツに足を入れた。そうして煙草に火をつけ、二三度吸い込んでは天井へ向けて煙を吐き出した。
「――悪かったよ」
言葉と同時にグラスのなかの水が揺れた。佐久間が「あちっ」と呟いている。煙草の火が落ちたかどうにかしたらしい。スマイルは水の揺れがおさまる様をじっとみつめ、それからふと顔を上げた。
言葉は聞こえていたが、意味がよくわからなかった。
佐久間はばつの悪そうな表情で灰皿を見下ろしている。そうしてちらりとこちらを見て、また灰皿に視線を戻し、
「悪かった」
もう一度呟いた。
スマイルはなにも答えなかった。今何時なんだろうと無関係なことを考えながらグラスへと視線を移し、同じようにぽつりと呟いた。
「誠意が感じられない」
佐久間が吹き出した。
ごまかすように何度か咳き込み、煙草の灰を叩き落とす。
「大変申し訳ありませんでした」
「……口先だけだ」
「どうもすいませんでした」
「…言い方がかわいくない」
「ごめんなさい」
「もっと丁寧に」
「反省してますから許してください」
「反省してるように聞こえない」
「申し訳ないと思ってます――」
そうして佐久間は灰皿をみつめ、スマイルはグラスをみつめ、何度となく謝り、何度となく難癖を付け合った。その合い間に佐久間の手が伸ばされてためらいがちに髪に触れ、髪を梳く指の感触に導かれるようにスマイルは顔を寄せた。佐久間の肩にあごを乗せて煙草の匂いを強く嗅ぎ、後ろ頭を撫でるように指が動くのをぼんやりと感じている。