佐久間は携帯をもてあそびながら休憩室の壁にかけられたカレンダーをじっと眺めている。
 ――今日は火曜日。
 火曜日は確かバイトがあった筈だ。だから今日は多分来られない。
 煙草の灰を叩き落として携帯の画面を開く。機種に最初から保存されている無味乾燥な待ち受け画面を眺め、ボタンを押してメールを打ち込んでいく。

『今日暇か?』

 文面はそれだけ。だけど、それでスマイルには充分伝わる。
 送信ボタンを押そうとして、ふと手を止めた。来られないことがわかっていながら誘いをかけるのはあまりにもバカバカしい。消去しようとしてまた手を止めて、佐久間はテーブルに携帯を置き、頬杖をつきながら暗くなってしまった画面を眺めた。
 ――なにやってんだ、俺。
 一度煙草を吸い込み、まるでため息のように煙を吐き出した。
 もう何度こんな面白味のないメールを送ったことだろう。そのたびにスマイルはきちんと返事をよこしてくる。八時以降――バイトだから十一時以降でなければ明日――何時でも――。一度として「嫌だ」と断わられたことはなかった。都合のあわないことはあったが、誘いをかければ必ず会いに来た。
 会って、話もせずに抱き合った。
 スマイルと別れるたびに、もうやめようと佐久間は思う。
 ――こんなバカバカしいこと、もうやめだ。
 そう思うのに、日が経つにつれて会いたいという気持ちが湧き起こる。七日は我慢する。十日までは持ちこたえる。だけどそれ以上は駄目だ。二週間を数えようとするとどうにもこらえきれなくなってしまう。そうして、またメールを送る。
 スマイルはなにも文句を言わずに都合のいい時間を知らせてくる。せめて向こうから拒否されれば、それだけで簡単にあきらめることが出来るのに、それをしない。
 ここずっと、まともな会話を交わしていなかった。目もあわせない。いつも視線はそらされており、なにかの拍子に目があいそうになると、何故か佐久間も逃げてしまう。こっちを見ろと念じるように思う癖に、その視線を受ける勇気がなかった。
 あの冷たい目に戻したのは俺だ。
 あの凍りついた顔に戻したのは俺だ。――だけど、それが望みだったわけじゃない。
 ――俺だって、
 あいつが笑うところが見たいのに。
 佐久間は苛立ちと共に煙草をもみ消してメールを送信する。いつも返事を待っているあいだ、今度こそは拒否られるかと期待する。「もう嫌だ」と、その一言さえあれば終わらせられる。二度と会えなくなったとしても、今のままで居続けるよりはずっといい。
 携帯の画面を閉じて新しい煙草に火をつけ、佐久間は窓の外をぼんやりと眺めた。薄曇りの空にかすかに陽は射していたが、葉の落ちた街路樹も、肩をすくめて歩道を行く人の姿も、なにもかもが寒々しくてたまらない。
 煙草の灰を叩き落として、もうやめようと佐久間は思う。もう本当に、こんなバカバカしいことはやめにしよう。
 すぐに返信が来た。バイトだから今日は駄目、そんな返事を期待していたのに、返ってきた言葉は予想外のものだった。

『何時でも。』

 ――バイトじゃねえのかよ。
 佐久間は錯覚ではないかと何度も画面の文字を読み返した。間違いない。会えるのだ。
「……くそっ」
 震える指で時間と場所を打ち込んでいく。送信しようとして消去した。灰皿に置いた煙草が全て燃え尽きるまで佐久間は携帯を握りしめ、うつむいていた。今日で十一日目。十日までは持ちこたえられた、なのに何故――。


 スマイルはメールの着信音に顔を上げた。枕元に置いてある携帯を拾い、画面を開いて届いたメールを確認する。

『七時半、駅の改札。』

 二三度咳き込みながらそれだけの文字を読み、ため息をついて画面を閉じる。枕に頭を乗せ直して、やっぱりやめておけば良かったかなと今更のように後悔した。
「入っていーい?」
「どうぞー」
 からりと戸が開いて母親の姿が現れた。既に仕事へ出かける用意は整っている。
「どうよ具合は。まだ熱ありそう?」
 言いながらコートに袖を通し、ベッドの脇にかがみ込んできた。そうしてスマイルの額に手を当てて自分の体温と比べている。
「まだちょっとあるみたいだけど。大丈夫だよ、寝てれば治るって」
「まあそうね、若いんだもんね」
「母さんと違ってね」
「あんた、一言余計なの」
 ぎりぎりと口元をつねられてスマイルは苦笑する。
「あー、なによあんた、あたしがあげたチョコまだ食べてないの」
 母親は机の上に置いてある包みを発見して非難の声を上げた。
「好物は最後に取っておく派だから」
「若い子のはもう食べ尽くした癖に」
「まだ残ってるよ。っていうか、なんだよ五倍返しって。いらないよそんなチョコ」
「うるさいわね、文句言わずに食べなさい。あたしの愛情がたっぷり入ってるんだから」
「よこしまな愛情だろ」
 もともとそれほど甘いものが好きではないのだ。スマイルは部屋を出て行く母親の後ろ姿を見送りながら、こういう時にペコが居てくれたらなぁとぼんやり考えた。そうすれば右から左へと移すように全部始末してくれるのに。
 スマイルはあらためて布団をかぶり直すと、また小さく咳をした。そうして携帯を開き、フォルダに残されている佐久間からのメールを読み返した。
 前回佐久間から連絡が来たのは十一日前。保存されているメールの文面は殆ど同じ内容だ。
『今日暇か?』
 たったそれだけ。なのに、それだけのメールが一つも消せずに残っている。
 一週間が無事に過ぎるとスマイルは無意識のうちに安堵する。十日を過ぎると、もう来ないのではないかと不安ながらに期待する。なのに二週間を越えようとすると、早く連絡が来ないかとそわそわしてしまう。もう意味を考えるのはやめた。少なくとも向こうが会いたいと言ってくる。ならば断わる理由はどこにも無い。
 ただ時折、
 ――ミジメだな。
 そんな考えがしきりに浮かぶ。
 まともに言葉も交わさなくなり、まだ機械を通じたやりとりの方が饒舌で、それでもこれが唯一のつながりだと思えば決して手放すことが出来ない。姿の見えない電波を頼みに、すがりついてしまう自分がひどくミジメで情けなかった。
 スマイルはベッドに起き上がりながら携帯の画面を閉じて握りしめた。そうして、ペコが居てくれたらなぁと、またぼんやり考える。そうすれば絶対にこんなことにはならなかった。
 咳き込んだ。息を整えるうちにむくむくと怒りが湧き上がってきて、投げる先も見ないまま力任せに携帯を投げつけた。携帯はどこかにぶつかって、がごん! と床に落ちた。落ちたあとの静寂が耳に痛くて、スマイルは深く息を吐いた。
「……わかってるよ」
 ペコが居ればこんなことにはならなかった。そんなの、最初からわかっている。


 スマイルの体はひどく熱い。
 佐久間は背後から抱きかかえるようにしてスマイルの胸元をまさぐり、我を忘れたように洩らす甘い悲鳴をむさぼるように聞いている。突き上げながらうなじをきつく吸い、無意識のうちにスマイルの手が腕を引っ掻く痛みですら、まるで誘われているかのように感じている。
「は…ぁ…っ、…あ…!」
 嫌々をするように首を振り、佐久間の手を押さえつけて激しい突き上げにまた悲鳴をあげる。あごに手をかけると偶然触れた指先をねだるように舐めてきた。そのまま口のなかへと指を突っ込み、舐め回される感触に呼応するように耳の後ろをねぶりまわす。
 また悲鳴が上がり、そのまま口をふさぎ、まるで強姦でもしているかのような心持で激しく突き上げた。
「ん…っ! んっ、…ぅ……っ!」
 逃げようともがきながらも、洩れ出る悲鳴は一段と高い。
 むせび泣くような声を聞きながら髪をつかんで無理やり振り向かせると、互いに息を乱したまま唇を重ねた。苦しそうに声を洩らしながらも絡み合わせた舌は快感を求めて動き回る。唇を離すと、かすかにスマイルの笑い声が聞こえた。
「…あに笑ってんだよ」
「え…?」
 内股をさする感触に体を震わせながら、暗がりのなかでスマイルが振り返った。
「…気持ちいいなと思ってさ…」
「そりゃ良かったな」
 嘲笑うように鼻を鳴らして佐久間はものを引き抜いた。そうしてぞんざいにスマイルの体を布団に横たえると、足を抱えて乱暴に突き入れた。
「こっちが金もらうようだな」
「いいよ、払うよ。いくら欲しい?」
 佐久間はなにも答えなかった。突き上げに小さくうめき声を洩らしながら、久し振りに話したなとスマイルは思う。
「ねえ」
「あー?」
 時に敏感な一点を刺激されて、スマイルは首をのけぞらせながら快楽に酔い痴れている。快感が背筋を走るたびに体の熱が上がり、同じように佐久間の肌もうっすらと汗を掻いている。この冬に佐久間が購入したファンヒーターは依然として暖かい空気を部屋中に送っており、既に二人は外気とは比べ物にならないほどの暑さを感じていた。
 スマイルは腕を伸ばして佐久間の首に抱きついた。そうしてせがむように抱き寄せると、佐久間は動きを止めて唇を重ねてきた。舌を絡ませ、熱い息を交わし、時折甘えるように声を洩らしながら佐久間の熱を感じている。手が髪を梳く感触にスマイルは陶然となり、仕返しのように指先で佐久間の首をくすぐりながら、不意に訪れた静寂をまるで幸福なもののように味わっていた。
「ねえ、」
「…あんだよ」


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