「もう二度としませんから許してください」
「…もう一回」
「いけないことでした、ごめんなさい」
「……もう一回」
 初めて佐久間は言葉に詰まり、少し上を向いて小さくため息をついた。
「…悪かったよ」
「………よし」
 安堵したように小さく笑う声が聞こえた。スマイルは佐久間のうなじの辺りをみつめ、今更のように頬の痛みに気が付いた。
「アクマ、」
「あ?」
「…お腹空いた」
「……っつってもなぁ」
 佐久間は困惑気味に台所へと振り返る。その手から逃れてスマイルはグラスの水を飲み干し、コタツに横になった。
「でも、いい。…も、寝る」
「――なんか着ろよ、風邪引くぞ」
「もう引いてる」
 スマイルは枕を引き寄せて頭に敷くと目をつむった。がたがたと物音が聞こえて、「これ着ろよ」と不意にトレーナーを投げられた。
「…めんどくさい」
「だーもう、おら、起きろ」
 毛布を引っぱられて、仕方なくスマイルは身を起こす。無理やりにトレーナーをかぶせられ、座り込んだままスウェットに足を突っ込んだ。そうしてまたコタツに入ると、佐久間が上から掛け布団をかぶせてくれた。
 電気を消し、オレンジ色の豆電球が灯るなかで佐久間は煙草に火をつけた。
「…俺も入っていいっすか」
「自分の家だろ。…好きにすれば」
 不意にファンヒーターのスイッチが切れた。灯油の匂いが強く香り、スマイルはわずかに顔をしかめる。佐久間はあらためてファンヒーターの電源を切ると布団を持ち上げてスマイルの横に入り込んできた。
 煙を吐き出し、小さくため息をつき、そっと髪に手を触れてくる。
「…風邪引いてんのか」
「…寝れば治るよ…」
 そうして一度咳き込んで、締め付けるような頭の痛みを感じながらスマイルは眠りに落ちた。


 目を醒ますと佐久間の姿は消えていた。
 布団のなかで身をもたげ、部屋を見回すがどこにも居ない。コタツの上に無造作にメガネが置いてあり、空のグラスが一つ、ぽつんと忘れ去られたように残っているばかりだった。
「……アクマ?」
 その呟きに返事をするように隣の部屋で物音がした。だが佐久間の声はしなかった。
 スマイルはメガネをかけて、棚の上にある目覚まし時計を見た。八時を少し過ぎている。多分仕事に行ったのだろう。
 ――なんだよ。
 せめて起こしてくれると思っていたのに。
 汗を掻いたせいで体がだるいが、気分は悪くなかった。熱は下がった様子だった。喉の渇きを覚えてスマイルは立ち上がり、コタツの上のグラスを使って台所で水を飲んだ。その時トイレの方で水の流れる音がした。
「…アクマ? 居るの?」
 返事はない。
 部屋のなかがやけに静かに感じられた。スマイルは足音を忍ばせてトイレの前に立ち、
「…居ないの…?」
 初めて置いていかれたのだという実感が湧いた。目が醒めるまでそばに居てくれるとどこかで思い込んでいたことに気が付き、まるで裏切りにあったように感じている自分に戸惑った。居なくて当たり前だ、そう思うのに、その当たり前が呑み込めない。
 ――なんだよ。
 不意に気力が薄れて、スマイルはその場にかがみ込んだ。そのまま玄関へ通じる通路の真ん中で膝を抱えて座り込み、素足が触れる床板の冷たさをじっと味わっている。
 授業があることを思い出したが、どうしても立ち上がる気にはなれなかった。受ける必要のある試験も今日はない。具合もさほどいいとは言えず、いいや、休んじゃえと思いながら、必死になって泣きそうになるのをこらえている。
「…冷血漢はどっちだよ」
 ぽつりと呟いた時、玄関の扉がガチャガチャと鳴った。驚いて振り向くと外側から鍵が外され、扉が開いて佐久間の姿が現れた。
「…だわあ!」
 通路に座り込んでいるスマイルの姿に驚き、奇声を発した。
「びびったぁー。あにやってんだ、んなとこで」
「…どこ行ってたの」
「朝飯買いに。お前、昨日腹減ったっつってたし」
 そう言って、手に提げているコンビニの袋をかかげてみせる。
「…あにやってんすか」
「……別に」
 スマイルは素っ気無く呟いて部屋へと戻った。そうしてコタツに入りながら、
「仕事は?」
「あー? 風邪引いたから休む」
「え…」
「これから引くんだけどな」
 そう言うと佐久間はビニール袋をコタツの上に置き、上着を脱ぎながら携帯を開いてどこかへと電話をかけ始めた。そうしてスマイルに向かって黙っているよう動作で示す。
「…あ、おはようございます佐久間です。…小林さんっすか、おはようございます。…ええ、ちょっと風邪引いちゃいましてね、…そうなんすよ。んで、すいませんけど一日だけ休ませてもらえませんかね。…はい、ええ。――あ、そんで北原さんに、昨日までの書類、机の上にあるって伝えてもらえますか? そう言えばわかりますんで。はい。――大丈夫っすよ。…はい。はい、すいません」
 そうして電話を切りながら、
「おばちゃんは話が長ぇんだよ」
 そう言って、携帯に向かって舌を出す。
「……ずる休みだ」
「毎日真面目に働いてっからな。たまにゃあいいだろ」
 佐久間はそう言いながらビニール袋の中身をコタツの上に広げた。おにぎりやサンドイッチなどが何種類かあった。
「一応お粥とうどんもありますけど」
 あとビタミンC、と言いながらオレンジのゼリーを取り出した。
「…ありがと」
 スマイルは呟いてサンドイッチに手を伸ばした。佐久間は床にスポーツ新聞を広げ、コタツに横になりながら読み始めた。
「寒くねぇか」
「平気」
「ファンヒーター入れてもいいぞ」
「大丈夫」
 窓の外から射し込む光が暑いぐらいだった。スマイルはぼんやりと、なにを考えるでもなしに物思いにふけりながらゆっくりと食事を終えた。佐久間は新聞を読みながらおにぎりにかぶりつき、のんびりと煙草をふかしている。
「……もうちょっと、寝てってもいい?」
「どうぞー」
 スマイルは一度コタツを抜け、佐久間がかぶっている布団の脇に入り直す。
「熱あんのか」
「多分下がったと思うけど…」
 佐久間は一瞬ためらったのちに手を伸ばしてスマイルの額に触れた。じんわりとした温もりを感じた時、スマイルはわずかな頭痛の残滓に気が付いた。佐久間はもう片方の手を自分の額に当てて、
「…よくわかんねえな」
 スマイルは小さく笑い、枕に頭を乗せた。そうして目を閉じた。
 時折佐久間が新聞をめくる音だけが耳に入り込んできた。うつうつとした浅い眠りを感じているうちに、やがて本格的に寝入っていた。
 暑さに目を醒ますと、隣で佐久間が眠っていた。仰向けになり、かすかにイビキを掻いている。スマイルはそっとコタツを抜けて台所で水を飲んだ。そうしてまたコタツに入り込み、布団をかぶり、気付かれないように静かに腕を伸ばして抱きついた。半開きの口元をみつめて、肩の辺りを指でなぞり、目を閉じて、また眠った。
 次に目を醒ました時、髪を梳く指の感触があった。顔を上げると指は逃げていった。すぐ脇で佐久間が腕枕で横になっており、寝ぼけているようなスマイルに向かって「おはようさん」と声をかけた。
「…何時?」
「――もうちょいで一時」
「そう…」
 スマイルは枕に頭を乗せ直して佐久間の首の辺りをみつめた。
「具合はどうっすか」
「…だいぶいいみたい。もうちょっとしたら、なんかあったかいものが食べたいかも」
「食欲あるのはいい証拠っすね」
 佐久間の言葉に笑い返しながらスマイルはまた手を伸ばす。そうして、佐久間の腕に触れるようにして軽く抱きついた。佐久間はもぞもぞと手を動かして、伸ばした腕を握り返してきた。
「…俺も枕もらっていいすか」
「…どうぞ」
 二人は身を寄せ合って枕に頭を乗せ、互いに腕を伸ばしてゆるく抱き合った。佐久間の首元に鼻を近付けるとかすかに煙草の匂いがした。やっぱり染み込んでると思ってスマイルは小さく笑い、温もりを求めるように顔を寄せた。
 佐久間の指がゆっくりと髪を梳き始めた。もうあまり眠くはなかったが、スマイルは目を閉じた。指の感触に身をゆだねていると、昨晩の出来事がまるで夢のように思われた。けれど夢でなかった証拠が、まだかすかに頬に残っている。
 スマイルは目を開けて佐久間の首元をみつめた。時折上下する喉仏を眺め、軽く唇を触れた。抱きしめられ、抱き返し、また泣きたくなって、あわてて目を閉じた。


真夜中/2004.11.24

  2004.11.28 一部改訂
  2005.01.05 一部改訂


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