「藤沢に来るのも久し振りだ」
風間はグラスにビールを受けながらそう言った。
「乗り換えの駅ではしょっちゅう利用していたがな。実際、海王を卒業してからは殆ど寄ることもない」
「よっぽどの用事がなければそうでしょうね。――待ち合わせてた人は江ノ電沿線なんですか?」
「ああ」
風間にビールを注いでもらい、二人はグラスをぶつけあう。互いに馴染みのないチェーン店の飲み屋だが意外に人気がある店のようで、平日なのに結構混んでいた。店の奥のテーブル席に案内され、二人は初めて差し向かいで酒を飲み始めていた。
久し振りに会ったせいで多少の緊張はあったが、既にいくらか酒が入っているお陰ですぐにリラックスすることが出来た。二人は互いの近況を報告しあい、共にペコの話題で盛り上がった。
そうして、調子に乗ってスマイルは飲み過ぎた。
「やっぱり酔っ払ってたんじゃないか」
静かに凍りついた夜の空気のなかを、スマイルは風間に腕を取られながら歩いている。風間が呆れて言ったその言葉に対し、しまりのない笑いを洩らしながら「すいませーん」とにひゃにひゃ返してはまた呆れられている。
「そこの角曲がってくださーい」
「右? 左?」
「お箸持つ方でーす」
「…右だな」
「あとはずっとまっすぐですぅ」
「はいはい」
「『はい』は一回ですー」
「……酔うとこんなに楽しい人になるとは思いもしなかった」
風間は苦笑しつつ道を曲がる。足元のおぼつかないスマイルを気遣うようにちらりとこちらを見上げ、その視線に気付いてスマイルは振り返る。
「――風間さん、時間平気ですか」
「今更聞くな」
そうして肩を揺らし、
「まだ充分余裕だ。たいして飲まなかったしな」
「僕一人だけガンガンいっちゃいましたねぇ」
「途中で止めておけば良かったと今更後悔しているよ」
「『後悔役立たず』ってホントですね」
「君が言うな。――というか、それは違うだろう」
ふわふわとした浮遊感に包まれながらスマイルは道の前方をみつめ、こんなふうにぼーっとした意識のままで生きていけたら楽でいいだろうなぁと考えた。凍てついた空気に包まれている筈なのだが酒のお陰で寒さも殆ど感じず、ただ自分が吐き出す息が白く曇るのをぼんやりと見下ろしている。
なんとなく人恋しい気分はまだ続いていた。
そこですと言って玄関に寄ってもらい、ポケットを探って鍵を取り出す。
「ご家族の方は?」
真っ暗なうちのなかを見て風間が聞いた。
「母親は、仕事で出てます。朝まで帰りません。あとは僕だけです」
「…そうか」
何度か鍵を差し込むのに失敗しながらドアを開けた。
「まぁムサイところですが、どうぞどうぞ」
「はい、お邪魔します」
まるで冗談のようにそんなやりとりを交わし、スマイルは風間の手から逃れて居間へ上がる。手探りで壁際のスイッチをつけてまぶしさに目を細めた。そうしてへたり込むようにして床に腰をおろした。
「大丈夫か?」
上から見下ろされて、なんとも答えられずに「んー…」とうなり続ける。
なんだか頭が上手く働かなかった。不意に寒さに身震いし、壁に手をついて立ち上がろうとして失敗する。
「部屋へ行きます。でも体が動きません」
「…手を貸そう」
「風間さん、呆れてますねえ」
「呆れっぱなしだ。普段の君からは想像もつかない姿だからな」
「そんなに違いますかねぇ」
再び風間に腕を取られて立ち上がりながらスマイルは首をかしげた。
それでも、確かにこれほど酔っ払うのは初めてのことかも知れない。普段はどんなに酔ったとしてもきちんと自分の足で家へ帰り、ベッドになだれ込むまではこなしてみせる。佐久間と飲んだ時だってこんなに酔ったことはなかった。
――あ、違う。
スマイルはベッドに横になりながら自分の考えを否定した。
前にも一二度、こんなふうにべろんべろんになった覚えがある。ただその時はお互いの家で飲んでいたからそのまま眠ることが出来たのだ。佐久間の布団を占領して酔った頭で黒縁メガネを見上げ、苦笑され、髪を梳く感触に安堵して目を閉じる、…そんなこともあった。
「風間さん」
「なんだ?」
部屋のなかを珍しそうに眺めていた風間は、スマイルに声をかけられて振り返った。
「…すいませんけど、水もらえますか」
「ああ」
部屋を出ていく風間の後ろ姿を見送り、スマイルはのろのろと体を起こした。そうしてリモコンを拾い上げて暖房を入れ、ベッドの上で座り込みながら両足を抱え込む。
今更のように寒さを感じていた。上着も脱げない。
「ほら――大丈夫か?」
「どうも…」
グラスを受け取り、ちびちびと水を飲む。そうしながら、なにを考えるでもなしにグラスのなかをじっとみつめ、ふと風間の苦笑する声を聞いた。
顔を上げると、風間の方がなにかを考え込むような目でこちらを見下ろしていた。
「大丈夫か?」
もう一度そう聞いてくる。スマイルは言葉もなくうなずいて、人が居るっていいなぁとぼんやり思った。
「風間さん、今どこに住んでるんですか」
「大学の寮だ」
そう言いながらベッドにもたれるようにして床に腰をおろした。
「都内に実家があるんだが通うのが面倒でな。かといってアパートを借りて独り暮らしというのも、まあ気楽でいいんだろうが食事の手間があるだろう」
「…すぐそばに知り合いが居るって、いいんでしょうね」
「君はここが地元ではなかったか?」
「そうですよ」
「だったら友達ぐらい居るだろう。隣に住んではいないだろうが」
「…一応居ますけどね」
ペコはドイツへ行ってしまった。
佐久間とは顔をあわせていながらも殆ど喋らない。
お互いバラバラだったものが一度は同じ場所へ集まり、今また、元には戻れないほど粉々になろうとしている。
――なんでだろ。
水を飲みながらスマイルは考える。なんでこんなことになってしまったのか。だけど今までだって何度も考えた問題だし、酔って正常に動かない今の頭で考えたところで、なにか建設的な答えが得られるとは到底思えなかった。
――そうだ、酔っ払ってんだよ、僕。
今更のようにそれを思い出す。そうして、
「風間さん」
ぽんぽんとベッドの縁を叩いてスマイルは笑いかける。
「ここ座ってください」
「…ああ」
グラスの底に残った水を飲み干しながら、風間がベッドに腰かけるのを見守った。そうして空になったグラスを差し出してスマイルは頭を下げた。
「すいませんけど、これテーブルに置いてもらえますか」
「はいはい」
「『はい』は一回です」
「さっきも言われたな」
苦笑するのにつられて笑いながらスマイルは手を伸ばす。風間のあごに手をかけてこちらを振り向かせる。とぼけたような表情のまま風間がこちらを見た。