「月本?」
 ぐらぐらと揺れる足を踏ん張ってスマイルは身を乗り出し、半ば体重を預けるようにして風間の首に抱きついた。
「お…」
 なにか言おうとする口を、唇でふさぐ。そうして唇を離しながら逃げる素振りがないことを確かめてもう一度重ねた。…もう一度。
 少しきつく抱きついて座り直し、唇を離しながら風間の目を見上げる。無表情ではありながら拒絶の色は見えず、スマイルがためらいがちにもう一度顔を寄せると、まるで誘われるように風間の方から唇を重ねてきた。
 ふと風間が顔を上げた。不思議になって見返すとなにも言わないままメガネを外された。そうして手にメガネを持ったまま、また顔を寄せてくる。もはやなにも考えずに二人はキスを繰り返す。
 そっと忍び込んできた舌を舐めるように絡ませた瞬間、えも言われぬ快感に見舞われて、スマイルはふとめまいを覚えた。声にならない悲鳴を洩らし、更にきつく抱きつき、背中に回された手の感触に泣きそうになった。
 初めて自分が悲しんでいることに気が付いた。
 もはや後戻りの出来ない佐久間との邂逅に、ひどく傷ついていたことを思い知った。
 もうなにがどうなろうとどうでも良かった。こんなぐでんぐでんに酔っ払った頭でまともなことが考えられる筈がなかった。今のこのささくれ立った気持ちを静めてくれるなら、――ほんの一時でもこの辛さを忘れさせてくれるなら、相手は誰でも良かった。たまたまそこに風間が居た。
 ひどく静かな部屋のなかで何度も何度もキスをした。スマイルは酒と快感に酔い、わずかに息を乱し、時折甘えるように声を洩らした。背中に回されたまま動こうとしない手がひどくじれったくて、唇が離れていった時、思わずすがるようにみつめてしまった。
「…月本、」
「はい…?」
 思慮深い瞳がなにかをためらうようにそっと伏せられた。スマイルはなにも言わず、ただ風間の首に抱きついてその体温を感じながら、いたずらをするように指先で髪を梳いた。ふわふわと体が浮くような酔いの感覚が意味もなく笑みを誘う。じっと動かない風間の唇をみつめて、もう一度重ねようとした時、
「申し訳ないが、多分君相手では勃たんなぁ」
 思わず吹き出した。
「……相変わらず、ひどいことはっきり言いますね」
「口の悪さは君に負ける」
 そう言って風間は少し笑いながら、うかがうようにこちらをのぞき込んできた。スマイルは言葉に詰まって同じように笑い返し、うつむきながら「すいません」と呟いた。
 そっと抱きついた手を離してベッドに横になる。今更のように恥ずかしさを覚えて、風間の視線から逃れようと毛布を頭まで引っぱりあげた。
「まあ誘惑は強烈だがな」
 風間はそう言いながら再び床に座り直した。
「連れにばれると怖いからな」
「……怖いんですか」
 スマイルはそっと毛布から顔だけ出してそう聞いた。風間は首をかしげて少し考え込み、
「怖いなぁ」
 何度かうなずきながら、しみじみとそう言った。その様子がおかしくてスマイルはくすくすと笑ってしまう。
「なんだか意外ですね。もっと関白亭主然としてるのかと思ってました」
「そうしたいのは山々なんだが」
 そう言って風間も苦笑する。
「どうも今一歩というところで、こちらが引いてしまう。…まぁ気が強いのは元の弱さの裏返しだからな。君と同じだ」
 思わぬことを言われて、スマイルは驚きながら振り返った。
「…僕は別に…」
 風間は、そうか? と問い返すように笑っていた。スマイルはなにも答えられなくて、ふと視線を落とした。
「…時々、信じられないような無茶をする。まるでわざと傷つこうとしているかのようで、心配で目が離せん」
「……」
「悲しませるのは嫌だからな」
「…いいですね、幸せそうで」
 スマイルは呟き、ぼんやりと風間の横顔を眺めた。
「君はどうなんだ」
「…幸せで、こんなべろんべろんに酔ってるんだったらいいんですけど」
 そう言ってスマイルは苦笑し、ふと温もりを求めるように風間の首へと手を伸ばす。不意に触れた手の感触に驚きながらも、風間はじっとされるがままだった。静かに言葉を待っている。
「駄目ですね。ずっと後悔してばっかりですよ。なんでこんなことになっちゃったんだろうって、どうしようもないことばっかり考えて――」
 考えて考えて、それでも、もうどうしようもない。
「…でも多分、もう一回やり直したとしても、結局おんなじことするんだろうなぁって思います」
「……」
「おんなじ道通って、おんなじバカやって、…ここでこんなふうに、おんなじように酔っ払ってるんだろうなぁ」
 その言葉に風間が吹き出した。つられてスマイルも笑い、指でそっと風間の喉仏を撫で上げる。
「まぁだから…問題は、これからどうするかってことなんでしょうけど」
「…そうだな。嫌でも生きてるなら、いつだって朝は来てしまうからな」
「そうですね…」
 こんなふうにふわふわと、まともに回らない頭で生き続けることが出来たらどれだけ楽だろう。他人のやさしさに甘え続けて生きていけたらどれだけいいか。だけど朝はやって来てしまう。頼みもしないのに、いつも決まって新たな自分を要求する。それがいいのか悪いのかは、スマイルにはまだわからない。
「大丈夫だよ」
 風間はそう言って、ぽんぽんとスマイルの手を叩く。
「なんとかなるさ」
「…なりますかね?」
「多分な」
 いささか投げ遣りに呟いて風間は肩をすくめた。その適当さに安堵してスマイルは笑みを洩らす。
「風間さん」
「うん?」
「もうちょっとだけ居てもらえます…?」
「構わんよ。――ただし、首をさわるのをやめてくれたらの話だが」
「……はーい」
 スマイルは渋々と呟いて手を離す。そのままだらりとベッドから下げていると、不意に風間に指先を握られた。
「冷たい手だな」
「よく言われます…」
 じんわりと温もりに包み込まれる感触が心地良かった。スマイルは酔いにかまけたため息をついて風間の手を握り返した。そうしてまるで子供のようにしがみつきながらそっと目を閉じ、このまま朝が来なければいいのにと思いながら眠りに落ちた。夢は見たけど覚えていない。


 目が醒めると朝は終わっていた。
 スマイルはカーテンの隙間から射し込む光をぼんやりと見上げ、枕もとの時計に目をやり、既に昼近くになっていることを知った。
「学校…」
 呟いて、一度身をもたげながらも再びベッドに横になり、
 ――いいや、もう。
 自主休校を勝手に選択する。
 テーブルの上を見ると、メガネと一緒に水の入ったグラスが置いてあった。スマイルはのろのろと体を起こしてベッドを抜けると、メガネを手に取りながら床にへたり込むようにして腰をおろした。埃が入らないようグラスの上にかぶせてある紙を取り、有り難く水をご馳走になる。喉は渇いていたが、幸いにも二日酔いの気配はなかった。
 酔っ払っても、結局いいことなんかなんにもないんだよなとぼんやり考えながら水を飲み干した時、上にかぶせてあった紙になにか文字が書き付けてあるのを発見した。スマイルはメガネの下に指を差し込んで目をこすり、紙を拾い上げて文字を眺めた。
 風間の名前と、携帯のものらしい番号が書き付けてあった。それだけだった。
 丁寧でどことなくやさしい感じのある風間の文字を眺めながら、スマイルは小さく笑った。さりげない気の遣い方が嬉しかった。
「ありがとうございます」
 スマイルは風間の痕跡に向かってそう言い、深々と頭を下げた。日の当たる場所に何気なく手をついた時、その温もりが夕べの風間の手の感触を思い出させ、スマイルはまた笑った。


雨宿り/2004.11.11


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