ごぽごぽというか、どんどんというか、とにかくおかしな物音と奇妙な振動でスマイルは目を醒ました。
時計に目をやるとまだ六時を過ぎたばかりだ。予定ではあと一時間以上眠っていられた筈なのにとまた目を閉じたが、どこからともなく響いてくる振動は依然として止まなかった。
――こんな朝っぱらから道路工事か?
不審に思って外の気配を探るが、どうやら違うらしい。だいたい音の出所が妙に近い。そして、どことなく覚えのあるリズムだった。スマイルはベッドのなかで横になりながらしばらく考え込んでいたが、やがてメガネをかけるとあわてて部屋を飛び出して風呂場へと駆け込んだ。
「うわっ」
すりガラスの扉を開けるとやけどをしそうなほどの湯気が一斉に吹き出てきた。一旦身を引いて、そばに置いてあった洗面器で蒸気を風呂場の外へと逃がし、ようやくのことでなかに入り込んだ。そうして追い炊きのスイッチを切ってそろそろと湯船のフタを開ける。
まだかろうじて水――というか熱湯――は給水口の上の線まで残っていた。空焚きをしていたのでなかったなら、恐らく故障は免れただろう。スマイルはほっと息をつくと、メガネについてしまった滴を拭いながら母親の部屋へと振り返った。
「母さんっ」
返事はない。母親の部屋の戸は閉じられたままぴくりとも動かなかった。ずかずかと居間を抜けてノックもせずにスマイルは戸を開けた。
「母さん、寝るんだったら風呂沸かすなって、何度言えばわかるんだよ」
見ると母親は服のまま床に横になり、着ていたらしいコートを布団代わりに寝息を立てていた。
「母さん?」
もう一度声をかけると母親は不意に目を開けて息子の姿を見上げ、
「……あ、寝てた」
「『寝てた』じゃなくってさあ」
スマイルはがっくりと肩を落としてやれやれと首を振る。
「お風呂沸いた?」
「熱湯だよ。カップラーメンが作れるね」
「…じゃあもういい。あとで入る」
「だから寝るんだったら風呂沸かすなって、」
「あんた起きるの?」
「起こされました」
むっとしてそう言うと、母親は不意に身を起こしてスマイルの両足に抱きついてきた。
「じゃあついでになんか作って。お腹空いた」
「…普通、そういうのは母親の仕事じゃないの?」
「あんたね、さっき仕事終えて帰ってきたばっかりなのに、まだ働かせる気?」
「わかったよ」
抱きつく手を振り切るようにして台所へ向かったスマイルに、母親が言葉を投げつけた。
「あんた、少しやせたんじゃない?」
言いながら煙草を手に居間へと出てくる。その母親に振り返り、スマイルは思わず我が身のあちこちに手をやって確認した。
「――そう?」
「なんかね。やせたように見える。もともとひょろっとしてたのが『ひょろひょろ』って感じになったみたい」
「『ひょろひょろ』は嫌だなぁ」
苦笑しながらスマイルは冷蔵庫を開けた。そうして、確かにそうかも知れないと思う。
ここずっと食事が美味くない。普段大学へ通うのとバイトへ行く以外は殆どなにもする気になれず、うちに閉じこもってじっとしているので腹もそんなに減らない。食事の量が減っていることは確かだった。
「うらやましい。あたしの余分なお肉分けてあげたいぐらいだわ」
「熨斗つけてお返しします」
「にくったらしい男」
小正月が終わろうとしていた。新年の浮かれた空気はまだどことなく町全体に漂っていたが、もとよりスマイルの胸の内には冷たい風が吹きすさんでいた。
佐久間との邂逅はまだ続いている。相変わらず言葉もなく抱き合うだけで、顔をあわせていながらお互いがどんな状況にあるのかも知らずに居た。
一年前とはすごい違いだと、時々スマイルはびっくりすることがある。去年の年明けは佐久間と共に迎えた。あの頃は、こんな自分の姿など想像もつかなかった。一年経っただけなのになにもかもが変わってしまった。たまにいつになったら終わるんだと考え、もしかしたら一生終わらないのかも知れないと思い、暗澹たる気持ちになることがある。
それでも言ったことを後悔しているわけではない。
『だったら好きにすればいいだろ』
本気だった。それで本当に罪滅ぼしになるならどうとでもすればいいと思った。その考えは今も変わっていない。ただ一つだけ解せないのは、時折佐久間が見せる苦悩の表情だ。自らの希望で呼びつけている筈なのに、時たま、申し訳なさそうにこちらを見ることがあった。
それだけはやめてくれと思う。
今更同情されたところでなにが変わるわけでもない。そもそも顔を見るのが気に食わないなら、呼びつけなければいいだけの話だ。以前のように殆ど接触もなく、かつて同じ道を歩いていた過去の知人として捨て去ってしまえばいい。そうすれば――。
――そうすれば、あきらめがつく。
結局、思い切れないのは自分の方なのかも知れない。今では佐久間を憎いとも思い、もはや友達だとも思えない状況のなかにありながら、それでもメールが入れば心がざわつくのがわかった。会えるのだと思うと嬉しかった。
――なんでこんなことになったんだよ。
あの梅雨明けの晩までは上手くいっていた筈だった。共に会い、酒を飲み、話をし、まるでそうあるのが当然のように抱き合った。今と殆ど変わりはない筈なのに、この胸の苦しさはなんだ。この抑え切れない怒りと憎しみはどこから出てくるのか。
佐久間からメールが入るたびに、もうやめてくれと思ってしまう。思いながらもまだ線が切れたわけではないのだと知れて、スマイルはどうしたらいいのかわからなくなる。歓喜と憎悪にのたうちまわり、吐き気すらもよおしながらも返事を出してしまう自分がひどくミジメで、少しずつ少しずつ、生きる気力を失いつつあった。
そんな頃のことだった。
その日は珍しく大学の友達と飲みに行った帰りだった。もともとその予定はなかったのだが、無理やりに誘われて――というか、
「お前が来ないと女どもが帰っちまうだろ」
と泣きつかれ、仕方なく付き合ったのだった。
それでも久し振りに他愛のないバカ話に興じ、楽しい酒を呑むことが出来た。スマイルはほろ酔い加減で気分良く小田急線に乗り、自宅へと向かっていた。その途中、藤沢の駅で電車を乗り換えようと改札口を抜けた時だった。
不意に誰かに肩を叩かれてスマイルは振り返った。
「――やっぱり君か」
一瞬誰だかわからなかった。だが強い意志の宿るその眼は見覚えがあった。三秒ほど考え込んで記憶の箱を探り、
「風間さん…!」
「そんなに驚くことか」
風間は苦笑しながら肩を揺すった。
「いやまあ、ちょっと見覚えのない姿でしたんで――お久し振りです」
当時はきれいに剃ってしまっていた髪の毛も眉毛もきちんと生え揃っていた。それで誰だかすぐにはわからなかったのだ。スマイルは申し訳なさそうに頭を下げた。風間はまた笑い、ふと懐かしそうにこちらを見上げてきた。
「久し振りだな。インハイ以来か」
「そうですね。…お元気そうで」
「お陰さまでね。今帰りか?」
「はい。――風間さん、この辺りでしたっけ」
「いや、ちょっと知人と待ち合わせをしていたんだがな」
そう言って風間は少し苦い顔をした。
「ついさっき、来られないと連絡をもらって帰ろうとしていたところだ」
「じゃあお暇ですか」
「まあ暇は暇だが…」
「良かったら軽くどうです」
言いながらスマイルは口の前でお猪口をかたむける仕種をする。
「もう充分酔っているようにも見えるが?」
「少し入ってますけど、ちょっと飲み足りなくて。良かったら付き合ってもらえませんか」
普段だったら素直に別れたのだろうが、酔っているせいか今日は無性に人恋しくてたまらなかった。風間は少し考え込んでいたが、やがてうなずいた。
「じゃあ軽く行くとするか」
「はい」
スマイルは笑顔でうなずき返して、風間と共に駅の外へと歩き出した。