煙【エン】:
 けむり(ア)火をたいて立ちのぼるけむり(イ)かすみ。もや(ウ)ほこり/けむる。けぶる/けむい。けむたい/すす/たばこ/阿片/


 佐久間は騒がしい喫茶店のなかで、イスに座ったまま、じっとテーブルを見下ろしている。
 正確にはテーブルに置かれた煙草のパッケージを眺めている。
 店に入る直前、初めて自分の為に購入した煙草だった。銘柄はなんでも良かったしよく違いがわからなかったので、マイルドセブンなぞという俗なものを買ってしまった。
 やめときゃ良かったという後悔は、まだ胸のなかで踊っていた。
 コーヒーを運んできたウェイトレスにマッチはあるかと聞くと、
「ございます」
 にこやかに笑って答えられた。十五秒後には煙草の隣に店名入りの紙マッチが並んでいた。佐久間はまたそれを言葉もなく見下ろして、なにやってんだと投げ遣りな気分でコーヒーを飲んだ。
 四日前、傷害事件を起こしたお陰で海王を退学になった。多分、悔いはない。親には呆れられたが、それでも、やるだけのことはやったという気概はある。インハイ予選でペコを打ち負かし、風間の期待に応えられず、スマイルに現実を見せ付けられた。
 俺は、凡人だ。
 暇を持て余して街をぶらついている時、ふと視界に入り込んできた煙草の自販機の前で足が止まった。バカバカしいだろうがよと思いながら、気が付くと小銭を投入口に放り込んでいた。銘柄を適当に選んでボタンを押す時、おいマジかよと自分に聞いた。
 ――マジっすよ。
 そう呟いて、ボタンを押した。
 中学の時、隠れて煙草を吸っている同級生は何人か居た。カッコつけたいだのなんだのというぼんやりとした理由は、なんとなくだが理解出来た。ただ自分は絶対に吸わなかった。喫煙など百害あって一利なしだ。運動を続けていたら絶対に吸おうなどとは考えなかった。
 だけど今、佐久間の目の前には煙草があり、マッチがある。
 カッコつけに煙草を吸うことを、心のどこかでバカにしていた。けれどパッケージを拾い上げてフィルムを剥がしながら、今自分が決別の為に煙草を吸おうとしていることとどれほど違いがあるのかと考えたら、ひどくミジメな気分になった。
 ――くだらねぇ。
 たかがこんなものに、どれほどの意味があるってんだ?
 佐久間はそう内心で呟き自分を鼓舞すると、煙草をくわえて紙マッチを擦った。パチパチと音を立てて炎が上がり、その弱々しい炎をしばらくみつめたあと、煙草に火をつけてマッチを消した。
 吸い込んだ煙は美味くも不味くもなかった。ただ、父親が吸っている煙草とは違う匂いなんだなと思ったばかりだった。一度吸い込んだ拍子に煙が喉を引っ掻き、軽くむせた。ごまかすように大きく咳き込んで水を飲んだ。そうしてテーブルに頬杖を突きながら意味もなく煙草を吸い続けた。
 長いあいだかたくなに拒み続けてきたなにかが、すぅと解けていくのが実感出来た。かすかにめまいを覚えたのは多分ニコチンのせいだろう。――安堵したわけじゃない。
 そうして佐久間は長い時間をかけて何本か煙草を灰にした。
 店の客は入れ替わり立ち代わり、次々と現れてはどこかへと去ってゆく。だが佐久間は行くべき場所も持たないまま、ただ煙草を吸うだけだ。これが自由の味だと思いながら煙草を吸い込み、そう思う癖に、吐き出す煙のなんと苦々しいことか。
 こんなもので格好がつくわけがない、こんなものが自由の象徴である筈がない。――なのに、今の自分にはこれしかない。
 ――ちくしょう。
 美味ぇよなあ?


佐久間:海王学園退学十月/2005.03.31


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