海【ウミ】:
 うみ(ア)わたつみ。陸を囲む水(イ)うみの水(ウ)湖水の大きなもの(エ)すずりなどの水をためるくぼみ/広く大きい形容/物の多く集まる所/


 潮の香りが鼻につく。
 孔は顔に吹きつける海風に目をしばたたかせ、しぶきを撥ね上げながら揺れる波間を眺めたまま、しばらくのあいだじっと立ち尽くしていた。
 ゆるゆると降り続ける霧雨が手元を濡らす。今更のように指にはさんだ煙草を口へと持っていき、ゆっくりと吸い込んでため息のように煙を吐き出した。差したビニール傘をわずかにかたむけると、目の前を滴が落下していった。
 今年の梅雨は長い。
 天上を覆い尽くす鈍色の厚い雲は、移動することを忘れてしまったかのように日本の上空に居座り続けている。このまま七月へ突入するのだろうか。本当に夏がやってくるとは信じられないなと思いながら孔はまた波打ち際を歩き始めた。
 久し振りの休日だった。晴れることはないにしろ、曇っている程度だったら洗濯をしようと目論んでいた。だが目を醒ますと生憎の雨模様で、重たい気分のままベッドに寝転がり、することもなく時間を費やした。
 午後になっていい加減腹が減ったので外へ飯を食いに出かけたのだが、どこへ行ってもなにを見ても、泥の如く固まった心を動かすものはみつからなかった。仕方なしにファーストフードの店で適当に腹をごまかして、買い物がてら商店街をぶらついているうちに、またふらりと海辺へとやって来てしまっていた。
 孔は海水のにじむ砂を踏みしめながら、打ち寄せる波の飛沫をぼんやりとみつめている。時折なにを考えるでもなしに意識を飛ばし、波に足を洗われてふと我に返った。鼻につく潮の香りが強く郷愁を呼び覚まし、そのたびに帰りたいと切に願い、帰るわけにはいかないのだと、まるで幼い子供に言い聞かせるかのように自らの心に語りかけた。
 どこかへ行くあてなどなにもない。上海へ戻ったところでなにかが得られるわけでもない。少なくとも日本に居れば卓球に関わっていられる。それだけの為に、今自分の身をここに縛りつけている。
 ――もう俺にはなにもない。
 みじめな負け犬だという事実。それだけだ。考えようによってはひどく身軽でいいとも言える。支えの手を差し伸べてくれていた風間ですら裏切った。今ここで死んだとしても、なんの未練もなくあの世へ逝ける。
 このままどこへ行くのだろう。孔はまた海原へと視線を投げてぼんやり考える。まるで波間に揺れる木の葉のように、右へ左へと、自然の気の向くままに流されてきた。果たしてこの先、どこまで流され続けるのか――。
 孔は風にあおられるようにして顔をそむけ、また歩き出す。ほんの少し先の砂浜で、うずくまるようにしてこちらを見ている若い男の姿を見るともなしにみつめながら、重い足取りで一歩一歩。どこを目指して歩けばいいのかわからないまま、ただ風に吹かれ風の導く先へと押しやられるように。
「――月本か」
 メガネの奥からじっとこちらをみつめる視線に気付いて孔はそう聞いた。男はゆっくりと腰を上げ、疑わしそうな表情でこちらを見返している。そうして、
「孔か?」
 そう聞いた。
 ――共に流された果てに二人は再会した。この邂逅が自分たちをどこへと運んでいくのか、その行く先は、まだどちらも知らない。


孔:辻堂コーチ三年目六月/2004.10.22


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