鳥【トリ】:
とり(ア)尾の長いとり(イ)とりの総称/星の名/
江ノ島弁天橋に足を踏み入れた瞬間、強い海風が吹きつけてきた。口のなかが辛くなるほどの潮の香りを胸一杯に吸い込むと、ようやく帰ってきたのだという実感が持てた。
「やっぱ江ノ島が一番だよなぁ」
島のてっぺんに建つ灯台の姿を見上げながらペコは呟いた。なあ? と同意を求めるように振り返ると、やや遅れて後ろを歩くスマイルが、何故か困ったように小さく笑っていた。
「ほかの海にはあんまり行ったことがないからなあ」
そう言って気まずそうに視線をそらせてしまった。さっきまで腕のなかで大泣きしていた自分のことを心配しているようだ。ペコは自分の醜態を思い返してふと恥ずかしくなり、ごまかすように言葉を継いだ。
「なんかドイツの海ってさ、まあ気温とか風向きとかもあんだろうけど、真夏でもどっかよそよそしいんだよな。他人行儀っつうかさ、…上手く言えねぇんだけど」
海鳥の騒がしい鳴き声につられてペコは上を向く。暮れ始めた空で風を切りながら多くの鳥が飛んでいた。餌をよこせとせっつくような叫びですら、どこか懐かしくてたまらない。思わず笑みが洩れてしまう。
「江ノ島はどうなの?」
緊張を解くようにスマイルが声を上げた。
「江ノ島はさぁ、騒がしくってよ、ガキっぽくってよ、ごちゃごちゃしててどっか冷たくってよお」
そうして、少しやさしい。
「…やっぱ、帰るところがあるって、いいよ」
「そう」
「なんかさ、帰れる場所があるから、どこ行ってもやる気になれるっつうかさ」
「……」
「――なんか、上手く言えねえんだけど」
結局言葉に詰まってペコはうつむいた。そうして潮の香りに流されるようにぶらぶらと橋を歩き続ける。
一年間ドイツで頑張ってきた成果を誰よりもスマイルに認めてもらいたかった。一部リーグへ昇格出来た喜びを共に分かち合えると思っていた。なのに顔をあわせれば、出てきたのは嫌というほどの愚痴と泣き言だった。
一言で要約してしまえば、
――寂しい。
ビザが下りればまたドイツへ戻らなければいけない。会えなくてずっとドイツで寂しくて、また会えなくなって更に寂しくなるのだ。自分で望んで入り込んだ道なのに、どうやって歩いていったらいいのか、今のペコには見当も付かなかった。
「ねえペコ」
不意の呼びかけにペコは足を止めて振り返る。
「空飛んでよ」
そう言ったスマイルは、空をやかましく飛び交う海鳥たちを指さしていた。
「あんなのよりもずっと高くまで飛んでたじゃない」
「……」
「月面タッチしてさ、平気な顔して戻ってきてさ、また飛ぶんだろ?」
高く低く、風を切りながら、どこまでも自由に。
「……おぉ」
ペコは風に吹かれながら空を見上げた。
海鳥の騒がしい鳴き声が風に乗って耳に突き刺さる。どこまでも高く飛び、時に旋回して低く海面をかすめながらまた飛び上がる。強風に吹かれながらも、そのなかでなにに邪魔されることもなく。
またあの空へ飛び上がろう。――今はただ、翼を休めているだけだ。
ペコ:ドイツ二部リーグ三月/2004.08.24