呪【ノロウ】:
のろう。のろい/まじなう。まじない/
二人で部屋に居ることにもだいぶ慣れてきた。
今までだって何度も向かい合って飯を食っていた癖に、意識したとたんに恥ずかしくなるというのも、おかしなものだと孔は思う。
「なんだ?」
ビールに伸ばしかけた手を止めて風間が聞くが、「なんでもない」と孔は首を振り、ごまかすように笑いながら味噌汁代わりのスープを口へと運ぶ。時として生まれてしまうこんな瞬間の沈黙に、どう対処したら良いのか未だにわからなかった。
風間は五月の連休明けに行われた春季大会の話をしている。孔は今年が最後の挑戦となる相田という生徒の話をする。その合い間に食事が片付けられ、酒が進み、部屋の空気は少しずつやわらかくなってゆく。
孔は問い質したいたくさんの疑問を胸のうちに押し込めたまま、流しへと食器を運んでいく。部屋から風間が持ってきてくれた洗い物を受け取りながら、聞くのはバカらしいか、やめておいた方がいいのかと、何度も自問を繰り返す。
「――どうしたんだ」
そんな孔の異変に風間も気付いたのか、ふと手を止めて聞いてきた。台所と部屋の境に立ち、軽く首をかしげるようにしてこちらをじっとみつめている。
「なにがだ」
「…なんだか、落ち着かない様子だな」
「そんなことはない」
「そうか?」
風間は納得のいかないような顔でしばらく孔の姿を眺めていたが、やがて部屋へと戻っていった。孔は曖昧な笑みを口元に浮かべたまま、カゴに水を張りながらぼんやりとそれらの疑問を反芻した。
日本人でなくていいのか。女でなくていいのか。…俺でいいのか。
――俺でいいのか?
風間を部屋に呼びつけるたびに、どこか申し訳ないような気持ちになっていた。無理をさせているのではないかと心配になった。風間を想えば想うほどに、孔の心の底が少しずつ裂けていき、不安な思いが溜まっていく。
そうして、いつしかあふれそうになる。
孔は水を止めると部屋に戻り、少しためらったあと、風間の目の前に座り込んだ。腕を伸ばして身を寄せようとすると、
「ああ、いや、その――」
「……?」
肩を押さえて止められてしまった。
「…実は来る時に急いできたものだから、少し汗を掻いてな。嫌な匂いがするだろう?」
「しない」
孔は風間の首筋に顔を寄せてそっと鼻を鳴らす。馴染みのものとなりつつある風間の体臭と、確かに汗の匂いが伝わってきたが、それは全然不快ではなかった。
「この匂い、好きだ」
「そうか?」
「命の匂いだ」
裂けた心を埋めてくれる、唯一のものだ。
孔は顔を上げ、静かに唇を重ねた。目を閉じると風間の匂いは一層強くなった。ゆっくりと背中を抱き寄せられるのを感じながら、もっとその匂いで満たしてくれと孔は思った。
不安を全て追い払い、心の裂け目を、お前で埋めてくれ。
孔:辻堂コーチ二年目五月/2004.07.27