地【チ】:
つち(ア)大地(イ)人の住む土地(ウ)土。どろ土/おか/くに。国土/場所/地の神/立場/身分。家柄/したじ/じ(ア)いなか。その土地の(イ)自然のままの性質。本性(ウ)織物の生地(エ)文章中で会話以外の部分/
ユースのコーチと待ち合わせをしたのは、孔が上海に戻った翌々日だった。
六月の上海はあいにくと梅雨に入っており、その日も朝から雨が降り続いていた。それでも孔は久し振りの故郷が懐かしくてたまらず、予定より一時間も早くに家を出た。
バスのなかは窓を閉め切っているせいでいささか蒸し暑い。車掌から買った切符をポケットに突っ込む段階で既にぐしゃぐしゃに握りつぶしている自分に気付き、長年染み込んだ習慣は簡単には消えないものだなと、思わず苦笑した。
人民公園でバスを降り、南京東路へと入っていく。いつもなら観光客が多いのだが、雨のせいかそれほど人出はないようだった。記念写真を取る写真屋はガードの下に避難しており、露店も普段の半分ほどしか見えない。途中、ファーストフードの店でコーラを飲みながら煙草をふかしていると、あちこちからさわがしい上海語が耳に飛び込んできた。なにを言っているのか理解するのは勿論容易で、その気楽さに、つい安堵のため息が洩れてしまう。
店を出ると雨は小降りになっていた。孔は傘をたたんで通りを行った。以前はなかった大きな店が出来ているのに驚いたり、よく買い物をした洋服屋が消えて代わりに別の店舗が入っていたりするのを確認しながら道を歩いていると、俺も観光客と大差ねえなとふと思った。
通りを抜けて道路を渡ると、そこはもう外灘(ワイタン)だ。黄浦江のわずかに泥臭い匂いですら懐かしく思ってしまう自分がおかしかった。川を眺めながらまた煙草をふかし、向かい岸に建つテレビ塔をぼんやりと見上げる。そうして、
――戻ってきたんだな。
しみじみとそう思った。
「おい、そこの不良」
聞き覚えのある声に孔は振り返る。コーチがにやにや笑いながらこちらをじっと見ていた。
「いつの間に煙草なんか吸うようになった」
「いいじゃん、別に。法律違反でもないし」
そう言って孔は足元に煙草を落とし、「日本じゃないんだからさ」と笑った。
「ほかの選手に示しがつかんだろう」
「わかってるよ。もうやめるんだ」
もう必要ない。
孔はふと川を行く遊覧船に視線を落とした。
「相変わらず、おのぼりさんでいっぱいだな」
遊覧船の客たちが雨の降りつける甲板に立ち、周囲の景色を物珍しそうに眺めている姿が見て取れた。
ここ外灘はイギリスの租界地として栄えた場所で、現在でも二十世紀の初め頃に建てられたヨーロッパ式のビルがたくさん残っている。上海で生まれ育った孔にはなにが面白いのかさっぱりだが、よそからやって来た人間にとっては、やはり物珍しく見えるようだった。
――風間が見たらなんて言うんだろう。
そんなことを考えて、孔は小さく笑う。
「どうだ。やっぱり故郷はいいか」
そんなコーチの言葉に、「そうだなぁ」と孔は首をかしげた。
「やっぱ言葉が通じるのは楽でいいや。でも、まあ…日本も、そんなに悪い国じゃなかったよ」
「行ったばかりの頃は散々文句言ってた癖にな」
「五年も住めば嫌でも愛着が湧くもんだ」
そう言って孔は苦笑し、
「そろそろ行こうぜ。お偉方が待ってんだろ」
「オーナーの前では礼儀正しくしろよ」
「わかってるって」
わずらわしそうに手を振ると、再び街中へと向かって歩き始めた。
孔:ユースのコーチ一年目六月/2004.07.19