天【テン】:
いただき/あめ。あま。そら/時節。時候/万物を支配しているもの。天の神。造物主/天然、自然の道。真理/うまれつき/めぐりあわせ。運命/たよりにするもの。妻が夫を、子が父を、人民が君主をいう/仏教で人間界の上にある世界/キリスト教で神の国/一日の意/
近頃の月本家では、息子がなにか生意気を言うたびに、
「そんなこと言ってると、死んだ父さんが化けて出るわよ」
と母親が言うのが恒例となっている。
月本家は母一人子一人の母子家庭ではあるが、勿論父親は死んだわけではない。
母親は女子高生時代に息子の父親と出会い、高校を辞めて結婚した。というのも息子が出来てしまったからだ。そのまま若い二人は幸せな家庭を築くことを誓った筈なのだが、息子が小学校に上がる頃には何故かひどく関係が冷めていて(そして険悪になっていて)、結局母親が息子を引き取り、離婚した。
その息子がスマイルである。
「たって、まだ死んでないでしょうに」
スマイルが呆れてそう言うと、
「あたしのなかでは死んだことになってるの」
と母親は反論する。そうして、「その方がきれいでしょ?」とあっけらかんとのたまうのだった。
「ほんっとに、なんで結婚したのかよくわからないよね」
「若気の至りじゃない?」
「そんな他人事みたいにさぁ…」
「だってもう二十年以上も昔の話よ? そんな古いことなんか覚えてらんないわよ」
そう言って母親はけらけらと笑う。スマイルは内心呆れながらも、その思い切りの良さは少しうらやましいと思ってしまった。
毎週水曜日は店が休みの為、母親が手の込んだ夕食を作ってくれる。月本家ではこの日が唯一家族団欒の日でもあった。スマイルが成人するずっと以前から当然のように食卓に酒が出る以外は、どこにでもある普通の家庭のにぎやかさが戻ってくる。
「あんた最近女のところに入り浸ってるみたいだけど」
グラスの底に残ったビールを飲み干しながら、急に真面目な顔つきになって母親が言った。
「不計画妊娠させて迷惑かけるんじゃないわよ」
そういう意味では無駄撃ちばっかりしてるよなぁとスマイルは一瞬バカげたことを考え、あわてて頭を振った。
「そんなこと言われなくたってわかってるよ。――っていうか、母さんに言われたくないよ」
「バカねあんた、経験者の言葉だからこそじゃない」
「そうだけどさ」
空になった母親のグラスにビールを注いでやりながら、スマイルはふと首をかしげた。
「なによ」
「…僕、時々、本当に母さんの子供なのか自信がなくなることがある」
「あらやだ、あんた知らなかったの?」
と、不意に母親は嬉しそうに言った。
「あんたホントは、はす向かいの川崎さん家の子なのよ。言ってなかったっけ?」
「――聞いてないよぉ」
そう言うと、母親は更に嬉しそうに笑った。
「あそこ子沢山で大変でしょ? だからあたしが一匹もらってきたの。赤ちゃんの時はまだかわいかったけど、まさかこんなにでかくなるとは予想外だったわねぇ」
「…じゃあなに、僕本当は『川崎誠』なの」
「そう。今から向こう行く?」
本気とも冗談とも付かない口調でそう言われ、スマイルはしばらくもごもごと口のなかで「川崎誠」「川崎誠」と呟いた。
「……なんか、駅名みたいで嫌だ」
そうして「月本でいいや」と言うと、また母親はおかしそうにけらけらと笑った。
スマイル:大学二年十月/2004.07.12