櫻【サクラ】:
しなみざくら。桜桃。バラ科の落葉低木。花は淡紅色で核果がある/ゆすらうめ/さくら(ア)バラ科の桜の木(落葉高木)の総称。日本の国花(イ)さくら肉。馬肉をいう(ウ)客を装って見物人の購買心をそそる露店商人の仲間/
孔は上を向きながら呆気に取られたような表情で道を歩いている。口をポカンと半開きにしたままとぼとぼと道を行くその横顔はまるで幼い子供のようで、風間は笑みが洩れるのを抑えることが出来なかった。
「…すごいな」
「ああ」
さっきから何度同じ会話を繰り返しているだろう。そう思いながら風間も同じように頭上を見上げ、どこまでも続く白い闇にみとれながら、確かにすごいなと胸のうちで呟いた。
三月、桜が見たいといって日本へやって来た孔を、風間は近所の川沿いにある運動公園へと連れてきた。古くから住民に開放されている大きな公園で、川辺の歩道一帯にずうっとソメイヨシノが植わっている。以前ロードワークで立ち寄った時はまだつぼみがふくらみ始めたばかりの頃だったので、これほどまでに見事な景観となるとは風間も予想していなかった。
確かに、すごいの一言に尽きる。
まるで天蓋のように川へと枝を広げる大きな桜並木が、視界の限りまで続いている。川の向こうもこちら側も、どこまでも果てしなく白い闇が広がっている。静かに吹き渡る風が桜の香りを運び、その美しさと香りに、今にも酔ってしまいそうだった。
ふと視線を孔に戻すと、風間の少し前方をふらふらとした足取りで歩いていた。惹きつけられたようにじっと桜を見上げながら、疲れたのか、ふとうつむいて首の後ろを手で揉んでいる。そうして誰も居ない公園のなかを見回し、吹き渡る風が散らす桜の花びらをつかもうとそっと手を伸ばした。
瞬間、強い風が吹いて桜が揺れた。
無数の花びらが舞い落ちて視界を白に染める。風間は驚いて足を止めた。花びらが舞うその先でふと孔がこちらを振り返った。花びらをつかもうと手を伸ばしたまま、かすかに笑う口元は何故か遠く、気が付いたら風間は孔の腕を握りしめていた。
「風間?」
不思議そうにこちらをみつめる視線に気付き、風間はあわてて手を離した。
「どうした」
「いや――」
一瞬、桜に呑まれて消えてしまうかと。
口ごもったまま風間は孔の頭に乗った花びらを払ってやり、肩に手が触れる感触にふと視線を落とした。孔が笑いながら唇を寄せてきた。
そっと触れて、すぐに離れていってしまう。
そのまま歩き出そうとするのを風間はまた腕をつかんで止め、まるでそうされることを知っていたかのように笑い続ける孔の腰を抱き寄せて、唇を重ねた。
強い風が吹いて桜を揺らす。舞い落ちる白い闇が、二人の姿を一瞬だけかき消した。
風間:大学卒業三月/2004.07.03