跫【アシオト】:
 あしおと。人のあるく音/人のけはいのするさま。通行人のはなし声/


 吐き出す息が白く曇り、自分の顔の後ろへと流れていくのをペコはぼんやりと感じていた。季節は真冬だがロードワークの最終地点を間近に控えて、体中から汗が吹き出していた。流れ落ちる汗をわずらわしそうに腕でぬぐい、また先へと足を踏み出す。
 もう嫌だと意識のどこかが嘆いたような気もしたが、とりあえずタムラへたどり着かなければ終わることすら出来ない。このままうちへ走り帰ったとしたら、きっとオババは夜中であろうと関係なくペコを引きずり出し、再びロードワークへと追いやるだろう。
 とにかくあと少しだ。そう自分に言い聞かせてペコは道の角を曲がった。道路のずうっと先の方に古ぼけた建物が目に入り、気力を振り絞ってペコは走り続ける。
「とーちゃくぅー」
 誰も居ないタムラの前でそう一人呟き、呼吸を整えながらしばらくうろうろと歩き回る。そうしてようやく息が落ち着くと、やっとタムラの玄関に入り込んだ。
「たでーまー」
「おう、ご苦労さん」
 道場にはオババ以外に人は居ない。蛍光灯のつけられた道場のなかはやけにがらんとしており、ペコはまだ少しだけ息を乱しながらすぐそばの卓球台の上に寝そべった。
「罰金取るぞ」
「腹減ったー」
「餅でよけりゃ焼いてやる」
「食い飽きたよ」
 まだ三が日も終わっていないのに。
 オババは、ふんと鼻を鳴らして煙草に手を伸ばす。
「正月休み返上して特訓付き合ってやってるってえのに、かわいくねえなぁ」
「俺は別に休んでも良かったのによ」
「もう充分すぎるぐれえ休んだだろうが。だいたいお前の方から特訓してくれって頼んできたんだろ?」
「…わぁってるよ」
 ぷいとそっぽを向いてペコは目を閉じた。
「オババ、肉マン食いたい」
「自分で買ってこい」
「アイス食いたい」
「……」
「カラムーチョもいいし板チョコも食いたい。ボンタン飴舐めたい。よっちゃんイカも食いたい。あ、あとコーラと微炭酸じゃないキリンレモンと、それからそれから」
 オババは既に話を聞いていない。ただ黙って煙草をふかすだけだ。
「スマイルに――」
 言いかけて、ペコはふと口をつぐむ。
「スマイル?」
「……なんでもね」
 ――スマイルに、会いたい。
 脇を見るとベンチが目に入る。そこに座りながら黙々とルービックキューブを回している相棒の姿を、ふと思い出す。
 長いあいだ、話をしていない気がする。
 不意に窓の外から聞こえてきた足音に、ペコは身を起こした。すぐ脇の道を走っていったようだ。暗がりに沈んでしまっている為に姿は見えない。つられたようにオババも窓の外へと視線を投げ、そうしてペコに振り返った。
「――やるぞ、オババ」
「あいよ」
 オババは煙草をもみ消してイスから立ち上がる。ペコは台から飛び降りてラケットを握る。
 春は、まだまだ遠い。


ペコ:片瀬高校一年一月/2004.06.29


back:023 真 お題トップへ next:025 櫻