聲【コエ】:
こえ(ア)もののひびき。おと(イ)音声(ウ)動物の鳴き声(エ)言葉/音楽/ふし。調子/ほまれ。名誉/うわさ。評判/おとずれ。音信/ならす。のべる。なる/
電気を消してベッドに入ると、スマイルが待ってましたとばかりに腕を伸ばして孔の体を抱きしめた。シャワーを浴びたあとなのでスマイルの髪からかすかにシャンプーの匂いがする。孔は身じろいで寝やすいように体勢を整えながら、そっと息をつき、片手でスマイルの背中に抱きついた。
「今日、寒いね」
ふとんをかぶりなおしてスマイルが呟く。確かに今夜は冷え込みがきつい。孔は「そうだな」とうなずき、スマイルの腕に頭を乗せると、ふとんのなかでスマイルの足に自分の足を押し付けた。スマイルはおかしな声で悲鳴をあげて、
「相変わらず冷たい手足ですね」
そう言いながら足をこすりつけて温めてくれる。
「ねえ、なんか話してよ」
「なにを?」
「なんでもいいよ。上海のこととか」
俺は子供に寝話をする母親かと一瞬孔は返事に詰まる。それでもしばらく考え込んだのちに、他愛もない話をしようと孔は口を開いた。
「私の家の前に、大きな道路が走っていた」
「うん」
スマイルは孔の髪を梳きながら話の続きを待っている。
「上海の中心に続く大きな道だ。ほかにはなにもない。小さな雑貨屋と、食堂と、古い寺があるだけだ」
「お寺」
「よくそこで遊んだ。うるさいと怒られた。なにもすることがないと、道路に出て車が走るのを見た。大きい車がそばを走っていくのが楽しい。軍のトラック、タンカー、バス…走っていく時に風が吹く。車が近くに来るまで顔を出してのぞく」
「危ないなぁ」
「危ないが、面白い」
孔は小さく笑い、つられたようにスマイルも苦笑を洩らした。
「近くのバス停で、時々ものを売っていた。野菜、果物、鶏。少し遠くに住んでいる人がバスに乗って売りに来る」
「鶏も?」
「鶏も。足を紐で結んで、袋に入れて連れてくる。バスで帰ってきた人が買う。元気のいい鶏から売れる。ずっと動かない鶏は売れない。どんどん安くなる」
農家の嫁が客と値段のやり取りをしている。孔はおっかなびっくり鶏に近付いていって、死んだようにぐったりとしているそれに触る。時折、うめくように鶏は羽ばたきながら、小さい真っ黒な目で宙をぼんやりとみつめている。
「鶏が逃げ出した。それまで寝ていたヤツが突然動いた。紐を結んだまま道路に飛び出した」
捕まえてやろうと孔は思った。道路を見て、車が来ないことを確かめて、ずるずると鶏が引きずる紐をつかもうと手を伸ばした時だった。
『文革』
「母親の声がした。早く帰れと言っていた。私が足を止めて振り返った時、目の前を軍のトラックが走っていった」
車が来ないことはきちんと確かめた筈だった。何故見えなかったのかわからなかった。まるでなにもない場所から急にトラックが現れたかのようだった。
「鶏は死んだ。売りに来た人が怒ったが、トラックは止まらない」
「……」
「あの時、母親が私を呼ばなければ、今ここに居ない」
額にスマイルの唇が触れた。ふと顔を上げると、なにも言わないまま唇を重ねられた。そうして痛いほどに抱きしめられた。
孔:辻堂コーチ三年目二月/2004.06.13