風【カゼ】:
かぜ。空気の流れ/かぜにあたる/かぜのように速い/おしえ。教化/ならわし/ようす。すがた/勢い。重み/けしき。おもむき/情況。動向/うわさ/うた。楽曲/とる(采)/はなれる(放)/さかりがつく/病気の名/ほのめかす。あてこする/そらんじる/
風間が高円寺に借りたマンションは全部で七階建てだ。だけど風間の部屋は二階にあるから、それほど見晴らしがいいわけじゃない。ベランダから身を乗り出しても、見えるのは同じようなマンションや古臭い家の屋根ばかり。
「風間、一番上には行けるのか?」
暇を持て余していたとある日曜日の午後、孔はそう聞いた。風間は眺めていた雑誌から気だるそうに目を上げると、「うん?」と聞き返した。
「屋上のことか?」
「そう」
「どうかな。試しに行ってみるか」
風間は雑誌を放り出して立ち上がり、孔は嬉しそうにうなずいた。
エレベーターで七階へ上がり非常扉のノブを回すと、それは実に呆気なく開き、二人は易々と屋上へ出ることが出来た。
「見晴らしがいいな」
住んでいながら風間は初めて屋上へ出たようで、手すりからの眺めにしきりに感心している。
「あれはどこだ」
「西新宿だな。あのツインタワーが都庁だ」
「都庁か。前、行ったことがある。外国人登録やビザの手続きの時に行った。面白くなかったな」
「まぁただの役所だからな」
風間は苦笑し、吹きつける強い風に目を細めた。
「世界選手権は、どうだ」
「頑張るさ」
「…悪い時に来たか」
五月に選抜の為の試合があるのだという。知っていたら押しかけるようにして来なかったのにと、孔は少し後悔していた。だが、
「まさか」
風間はそう言って首を振り、不意に孔の手を握ってきた。
「会えて嬉しいよ。当たり前だろう」
孔はじっと風間の顔をみつめ、なにも言わないまま強く手を握り返す。そうして二人はしばらくのあいだ、周囲の景色をぼんやりと眺めていた。
「上海まで飛べそうだ」
遮るものが殆どない為に、ひどく強い風が吹いている。
「上海か…一度、行ってみたいな」
「来い。どこでも案内する」
そう言うと、風間は「ああ」と曖昧に笑った。
飛行機に乗れば三時間程度でたどり着ける距離ではあっても、やはり行き来はそれほど容易ではない。孔もあと二日ほどで帰らなければならないのだ。また離れ離れかと少し寂しくもなったが、孔はその考えを頭から追い出し、無理に笑ってみせた。
「風間、買い物に行くぞ」
風で冷えた体を震わせながら、孔はそう言って風間の手を引っぱった。
「今日はおでんにする」
「おでんに決めたのか」
「中国のおでんはあまり美味くない。ダイコンも入っていない」
「向こうで売っているのか?」
「ローソンにある」
会話を交わしながら二人は非常階段を下りていく。
どのみち離れ離れは決まっていたことだ――孔はふと空を見上げてそう思った。だったら、せめて一緒に居る時は、そんな悲しいことは忘れていよう。
たとえそばに居なくたって、上海で吹きつけてきた風は、きっと風間の許へとたどり着く。
孔:ユースのコーチ一年目三月/2004.05.28