無【ム】:
ない/否定詞として、あとに続く語を打ち消す/なかれ。禁止の言葉/なみする。軽んずる。無視する/むなしい。虚無/道家思想で、万物の根元である無形・無心の状態/
「俺が寝たら、お前起こせよ」
「えー? じゃああたしが寝ちゃったらどうすんのぉ? 誰が起こしてくれるのよぉ」
「だからお前は寝るなっつうんだ」
ぶっきらぼうに言い捨てて佐久間は無造作に足を組み、目を閉じる。鎌倉を出発した江ノ電は、夜も遅いせいかさほど混んでおらず、春の気だるい空気にまぎれて夜の闇のなかをゆっくりと走っている。
恋人にせがまれて夜桜見物に行った帰りだった。自分は海王を退学になってしまったが、元同級生たちは十日ほど前に卒業をし、恋人も無事就職が決まった。自分はこれまでと変わらず細々と工場に勤める毎日だが、なんとなく気が休まったように思える。
「お前、今日泊まれんだろ」
不意に顔を起こして佐久間が聞くが、恋人は既にウォークマンに聴き入ってそっぽを向いている。髪の毛を引っぱって振り向かせ、
「聞けよ、人の話を」
「あれ、マー君寝てたんじゃないの」
あと二時間ほどで今日も終わる。恋人はコンビニでプリンを買うのだと宣言している。そんなもん、好きなだけ食えやと思いながら佐久間はまたそっぽを向き、何気なく隣の車両を眺めた。
思わず、はっとした。
「マー君?」
「…んだよ」
あわてて帽子を目深にかぶりなおして、佐久間はうつむいた。そうして帽子の縁からちらちらとその人の足元をみつめた。ゆっくりと顔を上げて、それが風間に間違いないことを確かめる。
――なにしてんだ、こんなところで。
風間の実家は都内にある筈だ。大学へ進んだという話は部活の仲間から聞いていたが、それにしても今時分、江ノ電に乗る用事などない筈だ。
誰かに会ってきたのか、別の用事か――自分が気にする謂れなどどこにもないのはわかっていたが、それでも気になってしまうのは、風間がわずかに幸せそうに微笑んでいるせいだ。
他の人間が見れば気付かないほどかすかな兆候。だがそれは確実に存在する。
――あんな顔、することもあるんだ。
何故だかほんの少し、胸が痛い。
風間だけを目標に生きていた時があった。無理だと全ての人間に言われながら、自らもそのことを深く認識しながら、それでも追いかけずにはいられなかった。ただがむしゃらに生きて、そうして挫折した。
風間は佐久間の夢だった。生きた夢は、それでも自分のことなど少しも気にかけた様子を見せず、また勝手に夢を追い、幸せになっている。
「……ちっ」
帽子に隠れるようにして佐久間はまたうつむき、唇を噛みしめる。
――俺は、
足元をみつめて自分に言い聞かせた。
俺は、夢を捨てたんじゃない。現実に気付いただけだ。…それだけだ。
佐久間は不意に恋人の手を握った。感触に驚いたように恋人は振り返り、そうしてやさしく微笑んで、その手を握り返す。胸の痛みを覚えながら、佐久間は手のひらを包む恋人の温もりだけを感じている。
今の佐久間にとって、風間は生きた自分の過去だった。捨てた筈の過去は、それでも勝手に幸せになってくれていて、それはそれでまた幸せなことなのかも知れないと、ぼんやり思った。
佐久間:十八歳三月/2004.05.05