雨【アメ】:
あめ。あま。あめふり/恵みの広く及ぶたとえ/多い形容/友人/
なんでこんな日に出かけようという気になったのか、スマイルは自分でもはっきりしない。大学の講義は自主休講した癖に、うちでぼーっと窓の外を眺めていたら、なんとなく出かけてみたいと思ったのだ。なにも荷物を持たず、どこへ行く必然性もなく、ただ思いつくまま江ノ電に乗り、ふと海岸沿いで海の香りをかぎたいと――そう思って出てきてしまった。
海が近くにあるせいなのか、たまにそんなことを考える。自分ではどうしようもないほど強い力に飲み込まれて、自らの意識を失ってしまいたい――たまに、そんなことを。
多分、打ち寄せる波が好きなのだ。スマイルはそう考えている。なにも考えなくても勝手に波はやってきて去ってゆく。絶えず海鳴りを与えて、時を忘れさせてくれる。
――暇つぶし。
これが本当の暇つぶしだ。スマイルは江ノ電の戸口に立って窓の外を眺めながら小さく苦笑した。
窓に打ち付ける雨粒はさっきよりも少し減った。六月だというのに肌寒い。スニーカーのなかで指を動かして、まとわりつく湿気にかすかに眉をひそめる。車両内の全てが海の底に沈んでいるかのような、ねっとりと張り付く水っ気がたまらない。もうどこでもいい、次で降りよう。スマイルはイライラと手すりを握りしめた。
『笑えよ』
不意に、耳元でペコがそう言うのが聞こえた。驚いてスマイルは顔を上げ、江ノ電のなかを見回した。けれど当然のようにペコは居ない。
――なんで、
かすかに舌打ちをして、またスマイルはうつくむ。
なんで君はいつも無理難題を押し付けるんだ。そうしておきながら勝手に行ってしまう癖に。
三ヶ月前、ペコがドイツから戻ってきた。そうしてまた行ってしまった。遠い国。海で続いていても、果てし無く遠いよその国。
なんで雨なんか降るんだ。八つ当たりのようにスマイルはそう思う。なんで平日の午後なのにこんなに人が居るんだ。なんで人の声はこんなにも騒がしく――時は、いつまで経っても流れない。
一人になりたい。スマイルは心の底から切望する。一人になって、面倒なことをなにも考えずに、ただ波の音を聞いていたい。
『この星の一等賞になりたいの、卓球で俺は! そんだけ!』
まるで春雷のように叫んでいた、あの懐かしい声を、ただ聞きたい。
スマイルはふと悲しくなって手すりを握りしめる。そうしてじっと窓の外に視線を投げて唇を噛みしめる。電車のスピードがゆるんでいるのを全身で感じながら、どこかへ逃げ去りたいとふと思う。
なにも見なくて済む世界。
君が居ないことを嘆かずに済む世界。
――誰でもいいから。
そんな場所へ連れていってくれ。
両開きのドアがもどかしいぐらいゆっくりと開いてゆく。スマイルはまるで逃げるようにして江ノ電を降り、運転手に切符を渡して改札口を抜ける。そうして水たまりに足を突っ込んで、
「――あ」
振り返るけれど、扉は閉まり、江ノ電は発車していた。改札口にたたずんだままスマイルは茫然と電車を見送って、
「…傘、忘れた」
手を差し出すが、雨は殆ど上がっている。ただ鈍色の厚い雲が重く垂れ込めているだけだ。
――構うもんか。
スマイルはかすかに降りかかる雨のなかを歩き出す。そうして潮の香りに導かれるようにして砂浜へと歩いてゆく。君へとつながる海の果て。
そこに、確かに君は居た。
そうして苛立ちと悲しみを抱えたまま砂浜を歩くスマイルは、やがて自分がたどり着く未来のことなど、今はまだなにも知らない。
スマイル:大学二年六月/2004.04.29