雲【クモ】:
 くも。大気中の水蒸気が空中に霧状で漂っているもの/高い形容/多い形容/美しい形容/遠い形容/そら/「雲従竜」くもはリョウにしたがう:同類のものはたがいに引きあう/


 私としたことが情けない――風間は自室の窓からぼんやりと外を眺めながら思った。
 熱のせいで頭はどんよりと重く、体中の骨がギシギシと音を立てて、寝返りを打つのにすら反発しているようだった。もともと寒いのは苦手だったが、それでも体調を崩すことは滅多になかった筈だ。普段元気な人間がたまに具合を悪くすると、どうしてこんなにも重く悲壮な気分になってしまうのか。
 小さくため息をついてふとんのなかにもぐりこみ、風間は目を閉じた。ともかく眠ろう。眠って体を休めて、汗をかいて熱を出そう。きっと目が醒める頃には幾分かは楽になっている筈だ。
 暖房の効いた室内はもとより、寮内に残っている人間は殆ど居ない様子で、普段こんなにも静かなものだったのかと今更のように驚いた。時折聞こえてくるのは近くの道路を走る車のかすかなエンジン音だけだ。
 自分一人だけが騒がしい現実から取り残されてしまったかのようで、なんだか子供の頃に戻ったみたいだなと風間はふと苦笑した。そうして眠ろうと決意したばかりの筈なのにまた目を開けて、さっきと同じように窓の外を眺めやる。
 三階のこの部屋で、こうしてベッドに横たわると、見えるものは空だけとなる。青くきれいな空はどこまでも晴れ渡っており、時折、今にも失われてしまいそうなほど小さな雲が、ぽつんぽつんと行き場をなくしたように浮かんでいる。
 ――あれはどこまで飛んでいくのだろう。
 ややもすれば空に吸い込まれて消えてしまいそうな、頼りなさげな小さな雲。あの雲を、孔も同じように見上げたりしているのだろうか。そんなことを考えてしまい、ふと我に返って、風間はまた苦笑する。
 ――バカバカしいな、全く。
 考えまいと決めた筈なのに、ことあるごとに思い出してしまう。考えたところでもうどうしようもないこともわかっているのに、何故意識がそちらへと向いてしまうのか。…考えまいとすればするほどその姿を思い出してしまうのは、やはり心身共に弱っていることの証明なのか。
 バカバカしい――出来たら、熱と一緒にこの想いも捨ててしまいたい。どうにかして振り切ろうとしながら、どうしても思い切れない自分と決別したい。
 このまま一度、全てを失ってしまうのも、面白い。
 高熱に浮かされて過去の記憶をなくしてしまい、そうしてなにもわからないまま新しく全てを始めてみたい。きっと今までとは違った気分で卓球を楽しめる。きっと、なにかを思い煩うことなく毎日を――過ごせるように、なるのだろうか。
 最近は道を歩くのが辛かった。あちこちでツバキの花が咲いている。あれを見ると思い出す。孔の黒髪、孔の匂い。ビー玉のような真っ黒な目。思いのほか長いまつ毛に見とれていた自分を。
 気が付くと雲は薄く、遠くへと移動していた。冷たい風に吹かれて散ってしまうのだろうか。風間はぼんやりとそんなことを考えながら、ゆっくりと目を閉じてゆく。閉じたまぶたの裏にかすかな空の明るさが残っているのをじっと眺めながら、それでも、この空は誰のもとにも続いているのだと、ふと考えた。
 考えて、寂しくなって、また苦笑した。


風間:大学三年一月/2004.04.25


back:003 陽 お題トップへ next:005 雨