――これ、なんだろう。
 孔は自分の足元を見下ろしてぼんやりと考える。細長い鉄の棒がはるか前方まで伸びている。脇を見ると同じような棒がもう一本、一定の間隔をあけて、やはりずうっと先まで続いている。
 振り返ると、後ろも同じだった。前も後ろも、その棒以外になにもない。真っ白で、宙をみつめていると、意識が遠くなるような気がする。
 不意に地鳴りがした。ごごご…と、どこかで大きなものが動く音がする。孔は気配を探ろうと前方をみつめる。なにか黒いものが動いているのが見えた。――と、突然。
 ぐわん!
 轟音を発していきなり大きな車輪が目の前に現われ、通り過ぎていった。身構える暇もなかった。恐怖に体を強張らせていると、またもや車輪が現われる。
 ぐわん!
 轟音と共に体をすり抜けてゆく。痛みはないが、ただ恐ろしくてたまらない。悲鳴をあげたいが喉は嗄れて声が出ない。助けを求めたいのに体が動かない。
 車輪は次から次へと現われて、孔の体をすり抜け、去ってゆく。孔は恐怖に体を強張らせたまま、ただ終わるのを待った。だが終わる気配はどこにもなく、しかも車輪の現われる間隔がどんどん早くなっていく。
 ――嫌だ。
 孔はわずかに首を振る。
 ――こんなのは、嫌だ。これは違う。
 俺は死にたいだけだ、そう思う。恐ろしい目に遭いたいわけじゃない、ただ死にたいだけなんだ。死んで、楽になってそして、
「孔?」


 暗がりのなかで自分に覆いかぶさる人影が見えた。思わず孔は逃げようとその身をよじった。肩をつかまれて声にならない悲鳴が洩れて、
「どうした、大丈夫か」
 風間だと気付いて、自分が泣いていることに気が付いた。
 しゃくりあげて、風間の腕に思いっきりしがみつく。
 風間のたくましい腕に抱かれて、その胸のなかで少し泣いた。
「怖い夢でも見たか」
 うなずくことさえ出来ない。
 ゆっくりと息を吐きながら、強張った体から力を抜いていく。そうしてあらためて風間の背中に抱きつきながら、わかったぞ、と孔は思った。
「うなされていたぞ」
「――大丈夫」
 風間の手が慰めるように頭を撫でてくれる。そっとベッドに孔の体を横たえると、片手で頬杖を付いてまた頭を撫でる。孔はその手を握って動きを止めると、そっと唇に押し当てた。そのまま頬へ持ってゆき、風間の温もりをじっくりと味わう。
「まだ早い。もう少し眠るといい」
「ありがとう」
 感謝の言葉が自然と洩れる。暗がりのなかで風間に向かって微笑みながら、もう一度、わかった、と孔は思った。
 ――俺は、この男を傷付けたくないだけなんだ。
 もう遅いのかも知れない。けれど、これ以上長引かせないことは出来る。
「風間、また来る」
「君が許してくれるならね」
「来週。飯を食べる」
「また作ってくれるのか」
「違う。外で食べる。給料が入る。私がおごる」
「いいのか?」
「たまにはいい」
 そう言って小さく笑った。そして、
 ――それで最後だ。
 そう思った。
 バカなことをした、早く思い切れば良かった、俺が寂しいのを我慢して、一人で泣けば済むことだった。
 俺がすがるから、この男はやってくる。
「また来る、風間」
「何度でも来るよ」
 風間は笑って孔に口付ける。そうして風間の腕に抱かれながら、孔は半年振りにぐっすりと眠った。夢も見なかった。


 ドアを開けると、野太い男の元気な声が飛んできた。
「へい、らっしゃい。――よお、孔!」
「こんばんは、中野さん」
「ようやく来たな、この野郎」
 嬉しそうに笑いながらそう言うと、カウンターのなかから、ここ座れと自分の目の前の席を指し示す。あとから続いて店に入ってきた風間に目を止めて、「友達か?」と聞いた。
「こんばんは」
「こりゃまたガタイのいい兄ちゃんだな。あんたもこれかい」
 そう言って中野は手真似で卓球のラケットを振ってみせる。風間は微笑んで、はい、とうなずいた。
「へえ、なんか柔道とか空手とかやってそうな顔してっけどな。人は見かけによらねえな」
「孔にもそう言われます」
 風間は苦笑しながら孔の隣に腰をおろした。お品書きをもらって開くが、孔にはどれがどれだかさっぱりで、すぐにあきらめて風間に渡してしまった。
「私も寿司屋は初めてで…」
「俺が適当に握ってやるよ」
「安くね、中野さん。私、あまりお金ない」
「バカ言うな、俺がおごるって言っただろ。嫌いなもんとか、あるか?」
 孔は首を振る。
「そうだよなぁ。中国人は、あれだろ? イスだか机だかの脚以外はみんな食うって言うもんな」
「違う。飛行機も食べない」
「そりゃそうだ」
 げらげらと笑いながら中野は二人におしぼりを渡し、「ビールでいいか?」と聞いてきた。
 グラスとビールを受け取って二人は乾杯する。
 店のなかは家族連れが多い。カウンターの脇にある座敷に三組ほどの家族連れが座り、わいわい言いながら食事を楽しんでいた。小さな子供の姿も見える。幸せそうな光景に、孔は思わず微笑みが洩れた。
 ビールを呑みながら幾つか寿司を食ううちに、いい感じに酔いが回ってくる。こんなふうに気持ちよく酔うのは久し振りだった。
「お前、酒よえぇなぁ」
 早々眠そうな目をしている孔を見て、中野が笑う。
「最近はそれでも飲むようになってたんですけど。――大丈夫か? 疲れてるんじゃ…」
「大丈夫」
 孔は小さく首を振って息を吐く。胸のつかえがとれたお陰で今日は酔うのが早い。孔はふと風間を見た。風間も、なんだ? と問うようにこちらを見返してくる。
「大丈夫」
 そう言って微笑んだ。おかしそうに風間も微笑み返す。
 酔いのせいか体が熱い。ふと孔はカウンターの下で風間の太ももに手を伸ばした。その温もりを確かめるようにじっとしていると、風間がそっと手を重ねてくる。手を握り合いながら、俺は幸せだな、と孔は思った。
 最後にこんな幸せを味わわせてくれるなんて、神様はやっぱりいい人だな。


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