料理を持っていくと、テーブルに居たのは馴染みの客だった。
「よお、居たのか」
「こんばんは」
「頑張って働いてるか?」
「はい。中野さん、店はどうか」
「まぁぼちぼちだな。今度食いに来いよ、友達連れて」
「給料入ったら」
「なに言ってんだ、孔ならおごってやるよ。いつも美味い料理食わせてもらってるしな」
「ありがとう」
 孔は微笑んでテーブルに皿を置き、代わりに空となった青島ビールの瓶を下げる。
 中野は近所に店を構える寿司屋の主だ。自分の店を閉めたあと、最後まで居た客を連れてよく孔が働く店に食いに来てくれる。
 日本の文化の骨頂ともいえる寿司屋の店主が、中華料理を好きというのもおかしなものだと孔は思ったが、中国人の自分だってスパゲッティを茹でるし、鍋も作る。まさか本当におごってもらうつもりもないが、せっかくだ、近いうちに食いに行ってみよう。
 カウンターに戻ると、林が眠そうにあくびをしながら紙ナプキンを補充していた。そろそろ閉店だ。
「林さん、眠いか」
「ちょっとだけね」
 ごまかすように笑って林は目をこする。
「昨日、友達と長電話しちゃって」
「無理は駄目。ちゃんと寝る」
「それはこっちの台詞だよぉ」
 そう言って林は孔の目をじっとのぞきこんできた。
「孔さんこそ、ちゃんと寝てる? なんだかまた顔色悪くない?」
「大丈夫」
 本当は、夜中に嫌な夢を見てよく飛び起きることがあった。夢だったと気付いて、あわてて風間の姿を探してしまい、それから一時間も二時間も眠れないでいる。何故そんなことになるのか自分でもわからなかった。一人になりたいと思う癖に、一人は嫌だと、更に風間にしがみつく自分が嫌で、最近は自己嫌悪に陥ることが多い。
 どうにかしたいとは思う。だけど、どうしたらいいのかよくわからない。
「また倒れるなんて、あたし、嫌だからね」
 林の泣いていた姿を思い出す。
 去年の夏、藤沢の駅で倒れた時、彼女には世話になった。心配してくれているのだ。ありがとうと呟いて、孔は洗い終わった食器を拭いて棚に戻す。
「やっぱり日本で暮らすのって大変?」
 隣に並んで同じように食器を拭きながら林が聞いた。
「大変。言葉、習慣、みんな違う。あと、私は一人。生活のこと、全部する」
「そうだよね、孔さん独り暮らしだもんね。料理も自分でするの?」
「する。買って、作る」
「うわあ、あたしそれだけでも出来なさそう。そういうの全部お母さん任せだしなぁ」
「大丈夫。みんな出来る。最初は下手。だけど、練習、上手くなる」
「そお?」
「夏も上手くなった。林さんも上手くなる」
「夏さんも自分で料理するんだ」
 林は驚いて手を止めた。
「上手いの?」
「下手。私の方が上手い」
 そう言うと林はおかしそうにけらけらと笑った。
「そっかぁ、夏さんも独り暮らしかぁ…」
 夏は今、大学院受験の為に店を休んでいた。十月の半ばに試験が終わるというので、その頃には戻ってくる筈だ。
「日本の女の人って、どう?」
 突然林が聞いた。
「どう?」
「中国の人と違う?」
 難しい質問だった。孔はふと手を止めて考え込んだ。
「違う。だけど、違わない」
「どういう意味?」
「みんなきれい。洋服、化粧、髪の毛。中国よりお金がある。だけど中国もお金がある女の人、きれい」
「そっか」
「やさしい人が居る。林さんみたいな人」
 そう言うと、林は照れたように小さく笑った。
「だけど、嫌な人も居る。中国も同じ。やさしい人、嫌な人、両方居る。どっちも一緒」
「そっか…」
 そう、ただ生まれた国が、育った国が違うというだけで、男であろうと女であろうと、本質はあまり変わりがない。
 ――もし逆だったら。
 孔はぼんやりと手を動かしながら考える。
 もし俺が上海に居て、風間が上海に来た留学生だったら、俺はどうしただろう。同じように知り合って同じような道をたどっていたとしたら。
 ――きっと、風間が嫌いになったな。
 そう思い、孔はふと苦笑した。なにせ自分はユースを辞め、風間は現役の選手だ。嫉妬心にあおられて、もしかしたらひどく意地悪をするかも知れない。
 そう、だから、本当にたまたまなのだ。たまたま自分の方がよそ者で、風間が同情してくれた、それだけなんだ…。


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