またあの夢を見た。そう思いながら孔は目を醒ます。
 レールの上をばく進する大きな車輪、それを待ちうけながら、死にたい、死なせてくれ、そしてまた、死ぬのは嫌だ――そう思ううちに、車輪は自分の体をすり抜けていってしまう。去ってゆく車輪をみつめて、ああ、また駄目だったかと思う。そんな夢。
 目を開けると、風間の喉仏が見えた。静かな呼吸にあわせてゆっくりと上下している。毛布から手を出して、人差し指でそのでっぱりにそっと触れる。風間は知らずに眠っている。無防備な寝息が孔の耳に届く。
 風間の腕に頭を乗せたまま、まだ起きませんようにと孔は祈る。そうして少しだけ頭をずらしてあごの辺りをみつめた。不精髭が生えかかっている。三日ほっといても髭など殆ど生えない自分と違って、本当に憎たらしいほど男らしい体つきの奴だな、と孔は思った。
 窓の外はうっすらと明るい。まだ夜が明けたばかりらしい。それとも天気が悪いだけか? どちらにしろ、まだもう少しこうしていられる。手を戻し、首の力を抜いて、孔は風間の鎖骨の辺りにそっと唇を押し付けた。
 目を閉じると風間の匂いが強く立ちのぼる。汗に混じって鼻の奥に届くその野性的な匂いに、孔の体は熱くなる。昨夜の情事を思い出して孔は一人で照れて、そうしながら、いつまでこうしていられるだろうと思い、ふと悲しくなる。
 風間とこんなふうに抱き合って眠るようになってから、あのレールの夢を見るようになった。最初の頃は恐ろしくていつも風間の腕にしがみついた。時間など関係ない。風間はその感触に驚いて目を醒まし、どうしたと聞き、話したいのに話すのが怖くて首を振る孔に困ったように微笑して、そっと抱きしめてくれる。
 風間の腕に抱かれて、慰めるように頭を撫でられて、彼の匂いをかぎ、そっと息をついて目を閉じる。このやさしい腕は、だけど朝になれば帰っていく。彼の本来の居場所へと去ってしまう。そう思って、また悲しくなる。
 そばに居るのに、この男は遠い。
 女は居るのかと聞いたことがある。たいして意味はなかった。ただ深い関係の女が居れば、自分との付き合いは二次的なものなんだとわかって安心出来ると思った。それだけだ。風間の腕にすがりつこうとする自分に歯止めをかけてくれるものが欲しかった。なのに、
『今…私の、目の前に居る』
 どうしたらいいのかわからなかった。
 嬉しかった、それは事実だ。だけど、
 ――いつまでもこんなことは続かない。
 風間は同情しているだけだ、孔はそう思って寂しくなる。異国で暮らす一人ぼっちの外国人。そんなふうに思って、憐れんでくれているだけだ。口ではそんなことは言わないが、言わなくてもわかる。何故って、実際寂しくて、自分を気にかけてくれる風間を、自分が利用しているから。
 目の前に居る、そう言われた日から、風間からの電話はなくなった。普通に考えれば男に好きだと言われて嬉しい筈はない。だけど、風間に言われるのは嫌ではなかった。むしろ嬉しくて、安心してこの男を手に入れていいのだとわかって、それでも、怖くなった。
 きっとすがりつく。どこまでも助けを求めてすがりついて、いつか、迷惑になる。迷惑になって捨てられる。それが怖かった。
 すがりつかなければ捨てられることもない。だから忘れようとした。当然のように鳴らない電話に安堵して、だけど、どうしても携帯が捨てられない。持っている限り風間からの電話を受けられる、そう思ってしまう自分が嫌だった。だから余計に捨てようとした。なのにどうしても手放せなくて、けれど自分からかける勇気もなくて、一人の部屋でしょっちゅう泣いた。風間がいつも座る場所に腰をおろして、ある筈のない温もりを探して、風間の声を思い出し、繰り返し聞いた。
 あの笑顔が見たい。自分に向かって微笑みかけるあの顔が見たい。「変わりはないか」と心配してくれるあの声が聞きたい――結局、我慢出来なくなって電話をかけた。ただ自分からだとわかって切られるのが怖かったから、携帯ではなくて公衆電話にした。
 二度かけて、つながらなかった。わざと出られないような時間にかけていたから当然だった。最初は呼び出し音を聞いているだけで満足だった。まだ完全に糸が切れたわけじゃない、そう思えたから。
 なのに、かけるうちに、欲が出た。声が聞きたい。心の底からそう思った。
 会いたくてたまらなかった。またいつかのように抱きしめて欲しかった。
 切られるのを覚悟して、三月の半ば頃、また電話した。酔っ払ったような声で、それでも風間が出た瞬間、咄嗟に切ろうとした。だけど風間の声を聞いているうちに、もっと聞きたい、話をしたいと、想いが止まらなくなった。
『飯を、食べに来ないか』
 きっと断わられる、そう思った。むしろ断わってくれればいいとさえ思った。どうしても自分から見切ることが出来なかったけれど、これで断わられれば、きっとあきらめがつく。なのに風間は来た。俺を好きだと言ってくれた。嬉しくて、風間に抱きしめられて、泣いた。泣いてすがりついて、なのにやっぱり信じられない。
『どこに居ても心配か』
 憐れんでいるだけだ。お前は勘違いしてるんだよ、風間。誰かに頼られるのが嬉しいだけなんだ、その相手がたまたま俺だっただけで、俺のほかに誰かが先に居れば、そっちへ行ったに違いない。
 その証拠に、お前は絶対に「会いたい」と言ってくれないじゃないか。俺が誘わない限り絶対に部屋へは来ない。電話はくれるが、それだけだ。
 ミジメだな、俺たちは。お互い利用しあっている。そのことに気付きながら、それでも長く利用しあおうと思って、本当のことを言わないだけなんだ。お前にやさしくされればされるほど、俺はお前が信じられなくなる。だから俺も言えないんだ。俺を憐れんでいるだけのお前に、ただ利用する為だけに「会いたい」なんて、「会いに来てくれ」なんて、そんなバカげたことが言えるわけないじゃないか…。
 涙がこぼれてきて、孔は息を呑んだ。そっと手を伸ばして涙を拭くが、悲しい想いは決してなくならない。はぁ、とため息のように深い息を吐いて、孔は唇を噛みしめる。
「ん…」
 息が吹きかかった為か、風間がわずかに身じろいだ。うっすらと目を開けてこちらを見る。口の端をかすかに上げて微笑むと、
「朝か…?」
「まだ。まだ早い」
 孔は小さく首を振って風間の腕のなかに逃げ込んだ。いつものように、慰めるように、風間の手が頭を撫でてくれる。
 やさしくされるたびに、悲しくなる。
 孔は風間の首筋にそっと口付けた。唇を離すと、うかがうように風間がこちらをのぞきこんでくる。
「…そんな目をするな」
「何故…?」
「たまらなくなる」
 そう言って、ぎゅうと抱きしめる。わずかに下半身が熱くなり、孔は逃げるように体を引くが、風間の手はゆるまなかった。困って風間の顔を見上げると、小さく笑って唇を重ねてくる。
 ――知らなければ良かった。
 互いに都合よく利用しあっているだけなのに、それでも、風間の体は、こんなにも心地良い。


シリーズ小説入口へ next