なにか悪夢を見ていた。覚えているのはそれだけだ。
 目を開けると涙ぐんだまま自分を見下ろす林の姿が目に入って、孔は何故か、ああ朝なのかと思った。
「…気が付いた?」
 林の問いかけに小さくうなずいて、孔はじっとその顔をみつめ返した。
「林さん、なにしてる」
「孔さんね、倒れたの、ホームで。覚えてない?」
「……」
 覚えているようないないような。なんだか記憶が曖昧だった。それでも、そんな気がする。孔がうなずくと、林は大きく息を吐き出した。
「もう少しして起きなかったら、救急車呼ぼうって言ってたの。孔さん、大丈夫だってうわごとみたいに言ってたけど…」
 林は言葉に詰まって目を閉じた。大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちるのを見て、孔は体を起こした。
「怖かったんだからぁ…!」
「ごめんなさい」
 孔がそう言うと、林は涙を流しながらも首を振った。
「痛いところとか、ない? 気持ち悪かったりしない? 大丈夫?」
「大丈夫、もう大丈夫。――ごめんなさい、迷惑をかけた」
「なんともないなら、それでいい」
「お、気が付いた?」
 声に気付いてか、棚の向こうから老齢の駅員がひょっこりと顔を出した。
 孔が寝かされていたのは応接セットのソファーだ。木目のテーブルの上に無造作に携帯が置かれてある。
「風間っていう人から電話があった。孔さんが倒れたこと話したら、すぐに来るって」
「風間が…?」
 まだ長野に居るのではなかっただろうか。
「気分、どう? 救急車呼ぶ? 今更だけど」
 駅員がそう聞きながら腰をかがめて顔をのぞきこんできた。顔色を見ているようだ。孔はその柔和な瞳を見返しながら、どこかで見たことがあるなと思った。
「もう大丈夫。ごめんなさい」
「ありゃ、中国の人かね。いやいや、大丈夫ならいいけどね。暑さでやられたかな」
 そう言って楽しそうに笑う。
「麦茶飲むかい? お嬢さんもどうだ」
「いいんですか」
「いいっていいって。きゅーっと冷えてる奴持ってくるから待ってなさい」
「きゅ…?」
 駅員を見送っていると、突然林が両手を打った。
「そうだ、店長がね、明日は休んでいいって。お昼からでしょ? あたしが代わりに入るから」
「林さんが? だけど林さん、今日も働いた」
「いいのいいの。夏休みだから今のうちに稼いでおかなきゃ。良かったら他の日も代わるから、休みたかったら言ってね」
「ありがとう」
 さりげないやさしさが嬉しかった。駅員がついでにサボりだと言って自分の分の麦茶と共にグラスを運んできてくれた。有り難くご馳走になっていると、
「すいません、こちらで友人がお世話になっていると聞いたのですが」
 風間の声がした。
「ほい、お迎えだ。――はいよ、こっちですよ」
 駅員が手を上げて風間を呼んだ。棚の脇から姿を現した風間は緊張で口元をひきつらせていた。孔が起きているのを見て、「大丈夫か?」と聞く。
 孔はただうなずいた。
「良かった」
 そう言って安堵のため息を洩らした。
「あんたも飲むかね、麦茶」
「いえ、私は――」
「飲みなさい。あんたが一番大変そうな顔しとる」
 林の笑い声に照れたように風間はうなずいた。孔はソファーに座りなおしてスニーカーを履く。
「電話の方ですか」
 孔の脇に腰をおろして風間が聞いた。
「そうです。林って言います。孔さんとおんなじ店でバイトしてます」
「ご迷惑をおかけしました。こんな遅くまで申し訳ありません」
「いいえ」
 風間のバカ丁寧な口調に驚いているようだ。林は焦って両手を振った。
「お陰で――って言うのも変だけど、あたしもいっぱいバイト出来ます。ね、孔さん、また具合悪くなったら病院行った方がいいよ」
「ああ。そうする」
「じゃああたし、帰るね」
 ご馳走様でしたと奥に居る駅員に声をかけて林は立ち上がった。
「ありがとう。明日、お願い」
 孔は拝むように両手を合わせる。オッケ、と呟いて林は右手の親指と人差し指で円を作ってみせた。林と入れ替わりに駅員がグラスを持ってきてくれる。風間は礼を言って受け取った。
「あんた、この人の友達?」
「そうです」
「家は知ってるの? 知ってるんなら、送ってってやんなさい。また途中で倒れたりしたら大変だから」
「大丈夫」
 孔は首を振ったが、駅員も首を振った。
「無理しなさんな。あんた、寝てないだろう。クマ出来てるよ」
 そう言って目の下を指で示した。はっとして手で押さえるが、ばっちり風間が確認したあとだった。
「暑くて眠れなかったか?」
「たって、今年は冷夏だけどねぇ」
 確かに蒸して眠れない晩は滅多になかった。自分でも何故眠れないのか、理由は思い付かない。ただぼんやりと物思いにふけるうちに、気が付くと夜が明けている、そんなことの繰り返しだった。
 ずうっと、幻のレールの上を走る車輪を見ている。それだけだ。
 孔は返す言葉を失ってうつむいた。風間はなにも言わないままグラスの麦茶を飲み干すと「ご馳走様でした」と呟いて立ち上がる。
「立てるか?」
 うなずいてテーブルの上の携帯をつかみ、孔は立ち上がった。
「ありがとう」
「いいっていいって。気を付けてな」
「お世話になりました」
 駅員室を出るとホームに上り電車が入ってくるところだった。あおるような警笛に一瞬だけ意識が遠くなりかけたが、すぐに治った。風間が心配そうな目で見ているのが何故か恥ずかしくてたまらない。


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