小田急線藤沢駅のホームはかなり混み合っていた。夏休みの時期だから学生が居ない分通常よりは空いているのだろうが、それでも殆ど江ノ電しか乗らない孔の目にはものすごく混雑しているように見えた。
 辻堂へ指導に行った帰り、仕事もないのに、何故かここへ来た。見るだけ見ようと思って、ホームの一番端、新宿寄りのフェンスに寄りかかりながらやってくる電車をみつめている。
 駅員は孔の姿に気付きながらも、動く気配がないせいか、知らん振りをしていた。その方が有り難い。俺はただ、見ているだけだ。心のなかで駅員に向かって、そして自分に向かって呟いてみせる。
 電車が来る前にホームにアナウンスが流れる。各駅停車よりは急行電車の方が若干速度は速い。ライトが見え、轟音がとどろき、風と共に電車がホームに滑り込む。扉が開き、人が降りて人が乗り込む。笛が鳴って扉が閉まる。電車が出てゆく。
 そうして何本の電車を見送っただろう。気が付くと息が上がっていた。吸い寄せられるようにじりじりと体が線路へと近付いてゆく。唾を飲んで初めて喉の乾きに気付き、水が飲みたいと頭のどこかで考えた。汗ばむ手で必死になってフェンスを握り、体を支える。
 一瞬だ。
 ――あそこへ飛び降りれば、済むことだ。
 アナウンスが流れる。ライトが見える。轟音が近付いてくる。この手を離せばいいだけだ。すぐに終わる、簡単なことだ――。
「孔さん?」
 声が聞こえた次の瞬間、目の前を電車が通り過ぎた。孔は自覚のない緊張のあまり、すぐには口が開けなかった。振り返ると、あまりに怖い顔をしていたのだろう、林がびっくりしたような顔でこっちを見上げていた。
「…どうしたの?」
「……こん、ばん、は」
「こんばんは。どうしたの、こんなところで。誰かと待ち合わせ?」
「――違う」
 なにをしようとしていた?
 電車は何事もなかったかのように止まり、扉を開けて乗客が乗り込むのをおとなしく待っている。
 ――なにを、しようとしていた?
「林さんは…」
「あたし、さっきまで仕事だったの。夏休みだから稼がなきゃと思って、最近いっぱい入れてるんだ。孔さん、明日入るんだっけ」
「そう、かな…」
 頭が回らない。吐き気が込み上げてくる。それを我慢していると、ぐらぐらと目の前で視界が揺れた。足から力が抜けて、林の顔が消えた。女の悲鳴がアナウンスに混じって聞こえてきたが、その声を孔はどこか遠くで聞いていた。
 そのまま意識を失った。


 孔は突然倒れた。まるで糸を切られた操り人形のようだった。林は悲鳴をあげて孔の脇に座り込み、駅員を呼んだ。幸い車掌がそばに居たのですぐに駆けつけてくれた。担架を待つあいだに、とにかく誰かに連絡しなければと思ったが、孔の個人的な知り合いなど一人も知らないことに思い至り、咄嗟に店に電話しようと思った。
 バッグのなかから携帯を探していると、自分のものではない携帯が突然鳴り出した。音の出所は孔の体からだ。ジーパンの後ろポケットからこぼれ落ちそうになっている携帯を引っぱり出すと、「風間」と画面に出ていた。誰だかは勿論知らない。それでも彼の知り合いなら教える義務がある。林は通話ボタンを押して「もしもし」と半ば悲鳴のように叫んだ。
『あ…もしもし…?』
「はい、あの――」
『すいません、間違え』
「待ってください、これ孔さんの電話です、孔さんのお知り合いの方ですか」
『…そうですが』
「あの、あたし、林って言います、孔さんのバイト仲間です。孔さん、今藤沢の駅に居るんですけど、突然倒れちゃって」
『倒れた?』
「そうなんです。あの、孔さんの家族か誰かに、連絡してもらえませんか。あたし全然知らなくって」
『すぐに行きます。藤沢ですね?』
「そうです、小田急線の藤沢駅です」
 お願いしますと頭を下げて林は電話を切った。やってきた駅員が孔の体を担架に乗せるのを見守りながら、震える手でバッグから自分の携帯を取り出し、店に電話をかけた。
『もしも――』
「店長!? あたしです、林です――」


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