翌日、店に顔を出すと、レジに立っていた女の子が驚いたような顔をした。
「孔さん? 今日仕事だっけ?」
「違う。夏に会いにきた。約束をしている」
「また飲み行くんでしょ」
店長と並んで夏の酒好きはみなに知れ渡っていると見える。女の子の言葉ににやりと笑い返して孔はレジのなかのイスに腰をおろす。
「良く飲むよね、二人とも」
「私は飲まない。夏がいつも誘う。夏から電話があると絶対同じ言葉。『孔、飲みに行こう』」
「でもそれに付き合うんだから、結局孔さんも好きなのよ、お酒」
「少しね」
「あなたたち、私の悪口はいけない」
話していると夏がわざとしかめっ面を作りながらやってきた。
「悪口じゃないよ、こういうのはうわさって言うの」
「それは知らなかった。じゃあ今度は孔と二人で林さんのうわさをするとしよう」
「悪口言うんでしょ」
「違う。うわさだ。今、林さんがそう教えてくれた」
「――意地悪!」
そう言って笑いながら林はお疲れ様と言い、二人に手を振った。孔も手を振り返して店を出る。
「かわいい子だな」
雑踏に足を踏み入れて孔は言った。ああ、と夏もうなずく。
「まだ子供だけどな」
「幾つだっけ」
「高校一年だってさ。まだケツが青い。俺の趣味じゃないなぁ」
「そうか? 俺、夏はああいうのが好きだと思ってた」
「なんで!?」
けらけらと笑いながら二人は行きつけの飲み屋に入った。まだ時間が早いせいか店は空いている。
「妹が居たら、あんな感じなのかなとは思う」
生ビールを注文してぽつりと呟いた夏に、孔は振り返った。
「妹、か」
「ああ」
中国では人口増加を食い止める為に、七十年代の後半からいわゆる「一人っ子政策」を勧めてきた。特例をのぞいて一人以上子供を作ってはいけないという規制だ。ただ最近は高齢化が進むのを食い止める為に規制が緩和されつつあるというが、彼らの時代では双子でもない限り兄弟がないのが普通となっている。
「確かになぁ。でも今からじゃ持ちようがないしなぁ」
「孔はどうだ?」
「なにが?」
「あの子さ」
煙草に火をつけて夏はにやりと笑った。
「里帰りの土産に、嫁さん連れていくっていうのも、ありだぞ」
「バカ言うなよ、なんで俺が」
確かに林は素直でいい子だとは思うが、そんなふうに見たことは一度もなかった。
「…結婚なんて、考えたこともない」
「まだ若いからだよ」
「たいして違わない癖に兄貴面すんな」
おしぼりを投げつけると夏はげらげら笑いながら受け止めた。
「もし結婚するとしても、国際結婚は絶対に嫌だ」
「お、問題発言ですね。なんで? 外人差別?」
「違うよ。差別されるから、かわいそうだ」
そう言うと、思い当たるふしがあるのだろう、しんみりとした顔で夏もうなずいた。
「そうだな。確かにかわいそうだ」
ふと孔の脳裏に、レールの上をばく進する車輪の絵が思い浮かんだ。あれならきっと簡単に死ねる。夏と向かい合ってこんなふうに楽しく呑みながらも、そんなことを考えてしまう自分が嫌だった。
続いてふと風間の姿が思い浮かんだが、小さく首を振ってその姿を消してしまう。風間は今、夏合宿で長野の方に行っている筈だった。帰りは八月の下旬になると言っていた。少なくともあと一週間は帰ってこない。
飲んでいる最中、煙草がなくなったと言って夏が席を立った。戻ってきた夏の手には白いパッケージが二つ握られている。酒と煙草が手放せない男なのだ。
「…一本、もらっていい?」
そう聞くと夏は驚いて顔を上げた。
「嫌いじゃなかったっけ?」
「うん、まあ…物は試しって言うだろ」
吸えば頭のなかに浮かぶ嫌な絵が消えるかも知れない。煙草を受け取ってくわえると、夏がライターの火をつけて差し出してくれる。
「吸うんだよ」
火のなかに煙草の先を突っ込んだままじっとしている孔に向かって、もどかしげに夏が言った。言われたとおり息を吸い込むと、口のなかに嫌な味が充満した。あわてて煙草を離して息を吐き出す。
「奥まで吸ってみろよ」
「奥?」
「肺まで吸うんだ。普通に息を吸うのと同じ。口のなかに煙をためて、それを吸う」
二回目には上手く出来た。全身がしびれるような感覚があり、一瞬だけ頭のなかが真っ白になった。
「どうだ?」
夏は面白そうに孔の反応を見守っている。
「目が回る」
そう言うと、夏はおかしそうに大声で笑った。
「すぐに慣れる。毎日吸ってれば、すぐにニコチン中毒だ」
「あんまり美味くないな」
「初めは誰でもそうだ。美味いと思う奴なんて居やしない。だけど、それが美味くなるから、中毒なんだよ」
「なるほどね」
結局三本ほど灰にしただろうか。お陰で頭のなかの嫌な絵は消えた。だが続けて吸いたいかというと、それほど強く惹かれもしない。
九時過ぎまで飲んで夏と別れた。長く飲んだわりに意識ははっきりしていた。最近はそんなことが多い。どれだけ飲んでもあまり酔わない。酒に強くなったというのとは少し違う気がする。
駅のホームで蒸し暑い空気に包まれながら、孔はふと携帯を取り出す。留守電をチェックするが入っていなかった。電話帳で風間の番号を呼び出しながら、そろそろ寝る頃だろうか、まだ起きているだろうかと考えた。同時に十一桁の数字をみつめて、なんでこんなものにすがろうとしてしまうんだろうと嫌気も覚える。
この携帯は風間が買ってくれた。さほど使う用事もないので必要ないと思っていたのだが、あっても邪魔にはならないだろうと、プリペイド式のこれを「就職祝いだ」とプレゼントされたのだった。実は孔が自宅に電話をひいておらず、自分も寮を移るので連絡が取れなくなることを風間が恐れたのだが、勿論孔はそんなことなど知らない。
風間と話したい時は彼の携帯に電話をかけて一度だけ呼び出し音を聞き、そのまま切る。着信があったことを風間が見て、あとからかけなおす。そういう約束になっていた。
ボタンを押せば、つながるかも知れない。あの穏やかな声で「変わりはないか?」と言ってくれる――。
『なにか私に手助け出来ることはないのか』
風間がそう言ってくれることが既にどれほどの助けになっていたのか、きっと彼は知らないだろう。気にかけてくれる人が居る、そう思うだけで頑張れた。日本に残って本当に良かったと思っている。感謝している。
なのに。
孔はため息をついて、結局携帯をしまってしまう。やってきた電車に乗り込んで戸口に立ち、足元に視線を落とした。
会いたいと思い、電話をし、実際に会う。だが会えば会うほど、会いたいと思う気持ちがどんどん強くなり、会えない時が辛くてたまらない。風間は自分とは違う。自分は既にリタイアした。だが彼はまだ走り続けている。邪魔をしたくはない。
だから忘れようと思うのに、忘れられない。いっそのこと携帯などなければいいんだと、発作的に投げ捨てようとしたことも一度や二度ではない。捨てようと決意し、それでもやっぱり捨てられず、そんな自分が憐れで愚かで、バカバカしく、いつも力のない笑いだけが最後に残る。
――俺は、情けない。
何故こんな自分を風間は見捨てないんだろうと疑問にもなった。いっそのこと、向こうから愛想を尽かしてくれれば、こんなに楽なことはないのに。
それでもやっぱり会いたいと思う。会えなくて辛いと感じる。
結局どうにも出来なくて、動き出した江ノ電に揺られながら、孔は他の乗客に隠れてこっそりと泣いた。