遮断機の警報が鳴り始めるのと同時に、胸の奥にあらがいがたい衝動が湧き起こるのを感じて、孔はあぁまただと思いながらホームのずっと後ろに下がった。江ノ電がゆっくりとした速度でホームに滑りこんでくるのをみつめ、こんな電車じゃ死ぬのは無理だと自分に言い聞かせる。
ゆっくりゆっくり、大きな車輪に長く引きずられて、苦しむことになる。そんな苦しみを経験してまで死にたくない。
やや冷房の効いた車内に乗り込みながら、俺は本当に死にたいのだろうかと考える。いつからそんな想いが頭に浮かぶようになったのかは覚えていないが、それでも時折、ふとした衝動で飛び込みたいと思ってしまうことはあった。
藤沢方面の電車は混んでいた。最初から座ることは断念していたので、戸口に立ち尽くして孔は窓の外を眺めた。そうしていながら、ちらちらと車内の乗客たちを観察する。
仕事帰りのサラリーマンに混じって制服姿の学生が居た。見覚えのある、辻堂学院専用の半そでシャツを着ている。あいつも部活帰りかなと思って、孔はわずかに微笑んだ。
ついさっきまで孔は辻堂の体育館に居た。夏休みの合い間の自主練の日だったので顧問からは休んで構わないと言われていたのだが、去年から指導を続けている相田という二年生が来るというから出ることにした。
相田は結局インターハイに出ることは出来なかったが、個人戦の予選でベストエイトに残った。優勝・準優勝は相変わらず片瀬の二人組みに奪われたけれど、あの二人は今年が最後だ。相田にはまだあと一年残っている。次こそは全国へ進ませてやりたい。
無事日本からの就労ビザが下りて、孔はあらためて辻堂学院卓球部のコーチとして残ることとなった。充分とは言えないが安定した給料が入る。中華料理店でのバイト代とあわせて、なんとか日本での生活を続けていた。
二年も暮らせばさすがに慣れる。時々大学の寮で暮らす風間が遊びに来てくれていた。生徒たちも案外慕ってくれているようで、辻堂での居心地は悪くない。馴染みつつあるとは思いながら、それでも時折、言いようのない焦燥感に襲われることがあった。
焦燥感――いや、恐怖か。
知り合い同士で乗り込んできた乗客の話し声が孔の耳に飛び込んでくる。気が付くとあちこちで同様に会話が交わされている。声が小さいせいもある、声の調子が早いせいもある、その会話の全てを聞き取るのは無理だ。断片的に聞き慣れた単語を頭のなかで中国語に置き換えながら、やはりここは異国で、俺はよそ者なんだとあらためて認識した。
同じ黄色人種だから見た目だけではわからない。横に白人が立てば「ああ外人だ」と思うだろうが、孔が立ったところで日本人だとしか思われない。そうでないと気付くのは、孔が口を開いてからだ。
店で客に注文を取りにゆき、「お決まりですか」と言ったとたんに客はみんな驚いて孔を見る。たいていは隠そうとするが、その驚きのなかには少なからず恐怖が混じっていた。仕方がないとは思うけれど、一抹の寂しさがある。
たとえ言葉を覚えていようが、日本の習慣に慣れていようが、やはり自分はよその国の人間なのだ。そう思うたびに、言いようのない苛立ちを覚えた。そして同時に、足元に突然穴が空いたような恐ろしさも覚えた。ここに居てはいけないと暗に言われているような気がしてどうにもたまらなくなった。
『君が居る意味はある』
恐怖を覚えるたび、以前風間が語った言葉を思い出す。日本に居ることで多くの人間を助けている、君にしか出来ないことだ――その言葉が孔に安堵をもたらす。
風間が居なかったら、日本に残らなかったかも知れない。
居続けるより帰る方が断然楽なのだ。金だってかからないし、家に居ればわずらわしいことは全部母親に任せておける。
辻堂の顧問に、専属のコーチにならないかと話をもらった時も、思い浮かんだのは風間の姿だった。大丈夫だ、そんなふうに笑っているのが見えた。
意味は、ある。
たとえ選手としてでなくとも卓球が続けられる、そう思った。子供の頃から卓球のことしか頭になかった。将来は絶対世界的に有名な選手になるのだと決めていた。その道からはずれた時、この先どう生きていけばいいのかわからず途方に暮れていた時、逃げなくていいのだと風間が教えてくれた。風間の言葉がなかったら絶対に帰っていた。帰って、きっとみじめな想いで毎日を過ごしていた。
風間には感謝している。日本に居る数少ない――唯一といってもいいほどの友人だ。
たまに電話をもらった。もらうよりこちらからかける方が多いかも知れない。彼にも生活があるから邪魔をしたくはないが、時々、声を聞きたいと思うことがある。一人ではないのだと教えてもらいたい時がある。
会いたい、と思う時がある。
電車が藤沢に着くと携帯が鳴った。表示画面に「夏」と出ていたので、
「(ウェイ/中国語で「もしもし」の意)?」
『孔か?』
受話口から夏の元気な中国語が飛び出してくる。
「そうだけど、なに?」
『今日暇? 暇なら飲まない?』
夏の言葉に孔は苦笑する。夏は同じ店で働いている中国人男性だ。孔と同じ時期に日本の大学へ留学した。店では先輩だ。歳が近いのでよく話をするのだが、とにかく酒の好きな男でなにかと飲みに誘ってくる。飲むのは嫌いではないがそれほど強くない孔は、それでも母国語で会話が出来る嬉しさに負けて付き合うことが多かった。
「今日バイトなんだ。閉店までだから今日は駄目」
『じゃあ明日は? 俺、夕方まで仕事だけど、孔も入ってたか?』
「明日なら平気。明日は休みだ」
『じゃあ六時に店に来いよ。待ってるからさ』
「わかった」
『じゃあな』
夏と話をしていると、一瞬だけここが日本であるということを忘れる。電話を切ってふと顔を上げると、訝しげな表情でこちらを見る視線とぶつかった。そんな必要もないのに何故か孔はそそくさとその場を離れ、あの目だ、と考える。
あの目だ、あれを見るたびに、いつかこの国からも追い出されるのではないかと不安になる。たとえ表面上はにこやかに笑っていても、結局外国人の考えることなどわからないと日本人は言っている。決して理解しようとはしない。
今度小田急線を見にいこうと孔は思った。きっと江ノ電とは比べ物にならないほど早い速度で走っているに違いない。
改札口を抜けて家路を急ぐ人たちとは逆の方向に歩きながら、やっぱり俺には居ていい場所なんてどこにもないんだ、と思った。