孔は無言で歩き出す。風間も黙ってあとについてくる。
「なにか、礼をするといいか」
 改札口を抜けて江ノ電の乗り場に向かいながら孔は呟いた。
「そうだな。お菓子でも持っていくと喜ばれるかも知れない」
 孔の声に、ほっとしたように風間が答えた。
「あの女の子――林さん、だったか。彼女にも」
「ああ」
 電車を待っている時、風間が聞いた。
「どこかへ行く途中だったんじゃないのか」
「何故?」
「いや、小田急線に乗るなんて、珍しいと思ってな。誰かと待ち合わせでもしていたか」
「…違う」
 理由など話せない。自分でも倒れたというショックからまだ抜け出せていなかったし、なにより、
 ――なにをしようとしていた?
 俺は本当に死にたいのか。本当に死のうと思ったのか。
 死のうと思うくせに携帯だけは律儀に持ち歩いて、風間からの連絡を待っている自分がひどくミジメでおかしくて、孔は小さく笑った。
 ――バカバカしい。
 ただ風間から逃げようとしただけだ。自分の力では逃げ切れないから、誰かに背中を押してもらう、それを望んだだけなのだ。なのに、今こうして風間がそばに居れば、やっぱり嬉しいと思ってしまう。
 ミジメだった。思わず泣けてきて、あわてて唇を噛みしめた。
 電車のなかで二人は無言だった。孔は意地のように窓の外をみつめたまま一言も喋らなかった。時折風間の視線を感じたが、無視した。最寄り駅で下りると初めて孔は口を開いた。
「もういい。風間、帰れ」
「アパートまで送るよ」
「……」
 あらがえない自分がひどく情けない。
「…合宿は」
「うん?」
 夜道を歩き出すとようやく落ち着いた。暗いところは顔が見えなくていい、と思った。
「帰るのが早い。もっと長いと思っていた」
「ああ、それがな」
 風間は苦笑を洩らす。
「ちょっとした手違いで、ほかの部とかちあってしまったんだ。仕方なくうちが先に退散したよ」
 ちょうど帰ってきたところだったと風間は言う。
「どうしているかと思って電話したんだが、タイミングが良かったな」
「……」
「…何事もなくて、本当に良かった」
「――ああ」
 ぶっきらぼうに呟いて孔は家路を急ぐ。
 早く風間と別れたくて急いだ筈なのに、いざアパートに着いてしまうと、とたんに別れるのが惜しくなる。迷いながらドアの鍵を開けて、一瞬ののちに、「上がるか」と聞いた。
「休まなくて大丈夫か?」
「大丈夫。嫌なら、帰れ」
「せっかくだ。お邪魔するよ」
 なかに入って電気をつける。両方の窓を開けると台所に立った。
「ウーロン茶でいいか」
「構わん」
 グラスに注いで、今では指定席となっている窓際に腰をおろしながらテーブルに置いた。風間はくつろいだ様子でグラスを受け取り、口をつける。そうしておきながら、また心配するように孔をみつめた。
「なんだ」
 思い出した。
 あの駅員の目。今の風間と同じ目をしている。
「なにか怒っているのか?」
「何故だ」
「いや、なんとなくな」
「怒ってなど、いない」
 ただ自分には腹が立つ。
 ――なにをしようと。
 逃げようとしていた。
 風間からだけではない、全部からだ。コーチの座に座ることを許した自分、日本に残っている自分。風間を待つ自分、「外国人」の自分。受け入れられないという事実、どこへぶつけることも出来ずに、またこうして風間に助けを求めようとしている自分、全てからだ。
「風間には、関係ない。私の問題だ」
「私に出来ることはないのか」
「ない」
 言い切って、風間に見られるのが嫌で、孔は立ち上がる。うろうろと台所へ行き、することがなく、仕方なくまた戻る。
「なにもない。これは私の問題だ。風間はいつも同じことを言う、だけど風間には関係ない。風間にはわからな…っ」
 不意に泣きそうになって孔は言葉を切る。そっぽを向いて唇を噛みしめ、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせた。
「私と、風間は、違う。全部違う。生まれた国、言葉、住む場所、していること、全部だ。風間は何故いつも同じことを言う、なにもない、お前には関係ない、私いつも言った、『なにもない』、だけど風間もいつも言う、同じこと、同じこと、私何度言えばいい」
 こんな時でさえ母国語で喋ることが出来ないわずらわしさすら、きっと彼にはわからない。
「迷惑だったか…?」
 初めは孔の剣幕に驚いていた風間だったが、ふと腰を上げて目の前に立ち、そっと顔をのぞきこんできた。孔はもはや反論することも動くことも出来ず、うつむいたままただ小さくうなずくだけだった。うなずいて、風間が怒ればいいと思った。
 ――見捨ててくれ。
 自分からそれが出来なくてこんなにも苦しいのに。
「なにも出来ないのはわかっていた。それでも、もしかしたら、なにか役に立てる時が来るかも知れない、…ずっとそう思っていた。迷惑だとは思いもしなかった。済まない」
「謝られても」
「そうだな、身勝手だったな。ただ身勝手を承知で言えば…ずっと、君が心配だったんだ」
「心配されても私は…!」
 ――もうあの頃には戻れない。
 なんの恐れもなくただ頂点を目指していたあの時。失ってしまってから、それが幸せだったんだと、今ようやく気が付いた。もう戻れない。自ら切り捨てた。こんなにも自分があの頃を愛していたなど、思いもしなかった。
 もはや孔はなにも言うことが出来なかった。唇を噛みしめ、嗚咽を殺し、ただ泣いた。
 ようやく気付いた。戻れないことを後悔していた。戻りたかった。だけどその帰り道を自分から捨てた。風間が言うからとどこかで責任転嫁していた。でも違った。選んだのは自分だ。ずっとわかっていた。わかっていて、見ない振りをしていた。だから風間に会うのが怖かった。本当のことに気付いてしまうのではないかと恐れていた。こんなふうに後悔する時が来るのではないかと、怖かった。
 だから、会いたかった。
 心配されるのがたまらなく嬉しかった――。
 風間の手が頭を撫でている。そっと、慰めるようにゆっくりと、何度も。この期に及んでまでそばに居てくれる。思わず風間の着ているシャツの端をつかんだ。たとえ幻であっても、最後の時までは離したくない。風間の手が伸びて背中をやさしくさすってくれる。大丈夫だ、そんなふうにぽんぽんと叩いて、やがてそっと抱き寄せられた。
 風間の背中にしがみつき、声を上げて孔は泣いた。
 涙はいつまでも止まらなかった。風間はじっと孔が泣き止むのを待った。ゆっくりと背中をさすり、頭を撫で、時に苦しいほど抱きしめた。
「大丈夫だ」
 そう耳元でささやかれるたびに悲しみがあふれた。今なら全部忘れられる。孔は胸の奥にしまいこんでいた全てを吐き出し終えるまで泣いた。泣きながら、この両手がこんなにも心地良いなんて初めて知った、そう思った。

  −飛ぶにはまだ早い 了−


back シリーズ小説入口へ