花屋の店先の一番目立つところに、つぼみがわずかに開きかけている桜の枝が何本も置かれてある。
「すいません、その桜の枝を一本いただけますか」
風間がそう言うと、店員は返事をして「どちらがよろしいですか?」と聞いた。
「どれでも――ああ、そのつぼみがたくさんついているのが」
「かしこまりました」
ご自宅用でよろしいですかと聞かれ、一瞬だけ迷ったが、うなずいた。それでも真っ白な包装紙に無造作に包んでくれた。代金を支払い、風間は孔のアパートへと向かう。片手には缶ビール。日は落ちて、夜道は既に暗い。
二度と歩くことはないと思っていたこの道を、また歩くことになろうとは。たいして時が経っているわけでもないのに、風間の目にはなんだか十年振りであるかのように映った。だがわからない。もしかすると今夜が本当の最後になるのかも知れない。
それでもいい。また会える。
とにかく、今日は会えるのだ。
ドアをノックして返事を待つ。すぐに扉が開いた。緊張したように口元を引きつらせて、まるで怒っているかのような表情で、孔が姿を現した。
「こんばんは」
あらためてそう言うと、風間は桜とビールの両方を差し出した。
「土産だ」
「――ありがとう」
両方を受け取ると孔は体を引いた。なかに入り込んで風間は扉を閉める。確認するように部屋のなかを見回したが、変わりはなかった。そうして靴を脱ぎながら、心のどこかで、孔が自分に会えずに寂しがってくれればいいと思っていることに気が付いた。
――またか。
相変わらず、エゴは強い。
上着を脱いで指定席に腰をおろすと、孔が鍋を持ってやってきた。水炊だった。ポン酢もきちんと揃っている。
「買ったんだな」
そう言うと、驚いたように振り返って、「ああ」とうなずいた。水を入れたグラスをベッドの奥の窓際に置いて、そこへ桜の枝を挿している。
冷えたビールが差し出された。受け取って、孔が座るのを待ってからふたを開ける。そうして静かな夕食会が開始された。
どちらもしばらくは口を開かず、ただ食器がたてる音がわずかにするのみだった。
「美味いな」
やがて、ぽつりと風間が呟いた。
「ああ」
「だがそろそろ時期も終わりだ。もう春になる」
「そうだな」
孔の硬い表情は変わらなかったが、それでも少しだけ部屋の空気がゆるんだ。
「店で働く中国の人が、辞める」
不意に孔が言った。
「辞める? 国へ帰るのか?」
「違う。その人、いま大学に行っている。もっと上の学校へ行く。そのテストが十月にある」
「大学院か?」
「そう、それ。その勉強で、テストまでは辞める」
「そうか」
「私も、大変になる」
「…そうだな」
「風間は」
そう言って、不意に言葉を切った。風間は以前と同じようにビールに口をつけたまま、なんだ? と問うように見返した。
言葉に困って孔はうつむいた。なにを言おうとしているのかはわからない。それでも、なにを言われても大丈夫な気はしていた。胸にしまっていたものを吐き出したせいかも知れない。以前より落ち着いた、素直な目で孔を見られるようになった、風間はそう思った。
孔は箸を置いて窓枠に寄りかかる。そうして足を伸ばして息を吐いた。
「風間は、何故私を心配する」
「――は?」
それでも、思いもよらない質問には、対処が難しい。
「何故、だと?」
「そうだ。何故だ。私が心配だ、風間はいつもそう言う」
「…やはり迷惑か?」
「違う。何故だ」
「――ちょっと待ってくれ」
まさかそうくるとは思わなかった。今更何故だと聞かれても、そんなこと、自分にだってわかりはしない。
あらためて考えなければいけないことか? だがなんらかの返答をしなければ孔は許してくれなさそうだ。ビー玉のような真っ黒な目で、じっとこちらをみつめたまま、しかしやがて口を開いた。
「私が、外国人だからか」
少し考えたのちに、風間は小さくうなずいた。
「そうだな、それはあるかも知れない」
「……」
「時々海外遠征で外国に行くだろう? そのたびに多少の不安を覚えてはいた。ここは日本ではないし、私はここでは外国人なんだと。言葉も通じない、地理もわからない。案内の人が居なければ簡単に迷子になって、日本へ帰ることも出来ない。そんな不安を抱えたまま生活しなければならない君が、ずっと不憫だった。それは事実だ」
「私が上海へ帰ると心配しないか」
「まあ日本に居るよりは心配しないだろうが…それでも、どうしているかと気にはなるだろうな」
「どこに居ても心配か」
「そうだな。いつも君のことが気にかかって仕方がない。何故と聞かれて、あえて答えるなら…君のことが好きなんだ。それだけだ」
孔は無表情に風間をみつめている。風間は思わず苦笑した。
「まあ男に好きだと言われて嬉しい筈はないな。悪かった、忘れてくれ。嫌だというならすぐに帰るよ。出来れば、鍋を平らげてからの方が嬉しいがね」
「――私は、上海で生まれた」
突然孔が言った。