暗がりのなかにジンチョウゲの匂いが漂っている。
道を歩きながら風間はふと脇を見る。小さな白い花が幾つか固まりあって一斉に咲いている。歩道の植え込みにはずっと先まで白い花が開いており、風間はなんだか無性にいい気分になった。
真田としこたま飲み、珍しく千鳥足で風間は歩道を歩いている。一応理性は残っているつもりだが、部屋へ戻ってベッドに倒れ込んだらすぐに眠ってしまいそうだ。
まあ、たまにはこんな日も、あっていい。
悪い気分でないのだけが救いだった。春を目前に控えた夜の空気は生温く、それでいて少し肌寒いような、おかしな感じだった。
明日は一日寝ていよう。そう思いながらのんびり寮へと向かっている最中、不意に携帯が鳴り出した。真田だな、と風間は思う。まさかさっきの今でまた携帯をなくしたというわけではなかろうな、そう思いながら通話ボタンを押し、「もしもし」と酔いの回った声で答えた。
『……』
どこかの公衆電話からのようだ、かちりと電話がつながる音がした。風間はもう一度もしもしと呼びかけて、ようやく真田ではなさそうだと考える。もしかして、例の見知らぬ番号の主だろうか。三たびもしもしと呼びかけかけて、
『風間か』
どこか聞き覚えのある声だった。だがひどく酔っ払っているせいで、なかなか誰なのかが思いつかない。そうですが、と答えながら、ぶらぶらと人通りの少ない夜道をゆく。
『私だ』
心臓をわしづかみにされたかのようだった。風間は驚いて足を止めた。
電話の主は、孔だった。
『…今、大丈夫か』
「――ああ」
酔いがいっぺんに醒めてしまった。歩き出そうとしてふと立ち止まり、困ってしゃがみこみ、また立ち上がる。
『明日、暇か』
「ああ」
『飯を、食べにこないか』
驚きのあまり、すぐには返事が出来なかった。戸惑っていると、
『駄目か』
「いいや、――その」
『なんだ』
「…行ってもいいのか」
声がかすれていた。あわてて唾を飲み下す。
しばらく沈黙が続いた。やがて、怒っているかのような口調で孔が言った。
『風間のほかに、食べる人が、居ない』
目を閉じた。嬉しさのあまり泣きそうになっていた。
「有り難くご馳走になるよ」
『七時に来い』
「ああ」
『じゃあな』
「孔」
夢でなければいいと思った。ここで目が醒めてみろ、私は一生起き上がれないに違いない。
『なんだ』
「おやすみ」
『……』
しばし迷うような沈黙ののちに、孔が小さく、おやすみ、と呟き返す。そうして電話は突然切れた。
終了ボタンを押して風間は携帯をしまった。ジンチョウゲの匂いに包まれながら風間は少し泣いた。泣きながら、まあたまにはこんな日があってもいい、そう思った。