「風間」
練習が終わったあと、体育館で片付けをしている時だった。間延びしたような監督の声が風間を呼んだ。はいと返事をして、パイプイスに逆向きに腰かける監督の前へと駆け寄った。
監督の吉田は四十代半ばの男性だ。飄々とした顔つきながら過去に持つ実戦成績はなかなかのもので、部員たちからの信頼も厚い。その吉田の前に立つと、イスに腰をおろしたまま、上目遣いでじいっと顔を見上げてきた。
「なんでしょうか」
「お前、体の調子はどうだ」
「別に、なんともありませんが」
「飯はちゃんと食ってるか?」
「――はい」
うそだった。多少食欲が落ちていて、それが体力の低下につながりつつあった。さすがにまずいと思って無理やり詰め込むようにはしていたが、まさか見破られているとは思わなかった。それでも風間は余計な心配をかけたくなくて、わざと平気な顔を装った。
「まぁなんともなけりゃそれでいいんだが…」
そう言いながら頭を掻くが、それでも納得がいかないという吉田の表情は崩れなかった。
「正月からこっち、なんか元気がないような気がしてな。なにかあったか」
「いえ、なにも――」
「女にでも振られたか?」
からかうような口調だったが、思わず風間の顔は強張った。あわてて取り繕おうとしたが、間に合わなかった。
「図星だったか、こりゃすまん」
「いえ、」
お先に失礼します、と声が聞こえて、振り向くと仲間がぱらぱらと体育館を出ていくところだった。お疲れさん、と呟いて吉田は軽く手を上げ、風間に振り返った。
「岡本が心配しとった」
「主将が…?」
「ああ。ずうっとふさぎこんでる、なにがあったか俺に聞いてくれと。あいつも案外小心者だぁ」
そう言って吉田は楽しそうに笑った。
「五月の連休明けに春季大会があるだろう。まぁまだ二ヶ月も先だが、今年こそは優勝したいしな。お前がそんなんだと、みんなが心配して、練習も上手くいかん」
「……」
「俺でよければ相談に乗るが、女の話なら下手に掘り起こさねぇ方が良さそうだな」
「――申し訳ありません」
気遣ってくれる人が居る。それだけで有り難かった。仲間が居るというのは、本当にいい。いいってことよと吉田はからからと笑い、手を振った。
「まあ愚痴聞くぐらいならいつでもしてやれる。今度憂さ晴らしに飲み行くか。――あ、駄目だ、お前未成年だな」
「一応」
「そうは見えねぇけどなぁ」
そう言って吉田はまた笑った。笑いながら立ち上がり、イスをたたむ。
「前の女忘れるには新しい女だ。俺の姪っ子でよければ紹介するぞ」
「監督の姪御さんは確か…」
「今度中学だったかなぁ」
「…監督は私に犯罪者になれとおっしゃるんですか」
「よく言うだろ、『愛があれば歳の差なんて』ってな。ま、それは冗談にしても」
体育館の内部にある準備室のドアを開けながら、吉田はふと真面目な顔をして風間の姿を見上げた。
「あんまり一人で抱え込むな。お前はまだ若いからわからんかも知れんが、死ぬほど辛いと思うことでも、時が経てば案外笑って話せるようになる。昔を振り返って『あの時の自分は子供だった』と思えれば、大人になったって証拠だ」
「…そうなんでしょうか」
「経験者の言葉だ、重宝しろ」
そう言って笑うと、お疲れさん、と肩を叩いて吉田はなかに姿を消した。
「お疲れ様でした」
扉の向こうに声をかけながら、本当なんだろうかと風間は考える。
今のこの苦しみを笑い飛ばせる日が、本当にやってくるのだろうか。その時自分はなにをしているのだろう? その時、孔は――。
頭を振ってロッカールームに足を踏み入れた。仲間の姿はない。風間は無造作に専用のロッカーの扉を開けて、すぐさま携帯に手を伸ばす。「着信あり」の表示に胸が騒いだが、表示されている番号は見覚えのないものだった。
まただ、と思う。
先月辺りから一度か二度、見知らぬ番号から電話があった。タイミングが合わずに出られなくて、結局誰からなのかがわからない。折り返しかけてみるという手もあったが、ワン切り業者からの電話かも知れないと思い、放ってあった。
今度から出られない時は電源を切ろう、と風間は考える。練習中もマナーモードにしたまま電源を入れておくのは、以前孔からの電話を受ける為だった。だがもうその必要はない。
あれから三ヶ月近くが経つ。当たり前のように孔からの電話はなくなった。
自分で望んで入り込んだ道とはいえ、気がふさいでしまうのはどうしようもなかった。どうにかして忘れようと思うのだが、そんな簡単に忘れられるのであれば気がふさぐことも有り得ない。
『時が経てば』
どれだけ待てばいい? 半年か、一年か、それ以上か――。
とにかく、今は黙って耐えるしかない。自分で選んだことだ。いつかは必ずこうなる筈だった、その時が少し早く来てしまった、それだけのことだ…。
重いため息をついて私服に着替えていると、突然携帯が鳴り出した。一瞬迷いながら画面を見ると、またもや見知らぬ番号だ。だがせっかくだからと風間は電話を受けた。
「もしもし」
『風間か?』
聞き覚えのある声。けれど、すぐには誰だかがわからなかった。そうだが、と呟いたまま戸惑っていると、
『わしじゃ、真田じゃ』
「真田か、久し振りだなぁ」
たまに電話がかかってくることはあったが、卒業以来一度も会うことはなかった。お互い新しい生活に慣れるので精一杯だったのだろう。懐かしい友人からの電話とあって、風間のふさいだ心が少しだけ晴れたような気がした。
「携帯変えたのか? 以前と番号が違うようだが…」
電話帳に登録されていない番号だったので真田の名前が残らなかったのだ。
『それがなぁ』
と、真田は受話口の向こうで苦笑する。
『この前、酔っ払って携帯なくしてな。探したんだがみつからん。仕方なく、今ほうぼうに連絡入れてるところじゃ』
「相変わらずだな」
風間も苦笑して返す。真田の酒乱振りは高校時代から有名だ。
『久し振りに飲まんか? ついでに他の奴の番号教えてくれ』
「構わんよ。金曜の夜はどうだ」
七時に新宿で、と約束をして風間は電話を切った。
――ともかく、今は忘れるしかない。
忘れることは出来ないかも知れない。それでも、考えずにいることは出来る。気を遣ってくれる仲間が居る、友達が居る。きっと、忘れられる。