紙袋ごと差し出すと、受け取った孔はまず手触りで中身を当てようとした。だがしばらく考え込んだのちに、結局袋を開けてなかの缶を取り出す。
「紅茶の葉だ。良ければ飲んでくれ」
「ありがとう」
紅茶と聞いて孔は嬉しそうに笑った。
「ドイツはどうだ? 寒いか?」
「ああ。とんでもなく寒かった」
腰をおろしながら風間はうなずいた。
「十二月だからまだマシな方だそうだ。年が明ける頃にはもっと寒くなると教えられた」
「誰にだ」
「先生にさ。一年ほど留学していたそうだ」
十二月、底冷えのするような晩に、孔はおでんを作ってくれた。切って煮るだけだからこれが一番楽だと言って孔は笑う。
「味付けはどうするんだ」
「最初からある。買ってくる」
そう言って液体状のおでんの素を見せてくれた。なるほど、これなら確かに楽そうだ。
「風間も作る。簡単」
「今度な」
自分のような不器用者に、本当に作ることが出来るとは思えなかったが。
向かい合って酒を飲み、おでんをつついているうちに、いい感じに酔いが回ってくる。孔は相変わらずすぐに眠そうな目をして、なにがおかしいのか口元がにやにやと笑うようになる。
「風間は」
そう言って一旦言葉を切り、ビールを飲んだ。同じようにビールの缶に口をつけたまま風間は、なんだ? と聞くように見返した。
「女は居ないのか」
あやうくビールを吹き出すところだった。なんとか阻止したが、気管に入ってしまい、盛大にむせた。大丈夫かぁ? と半ば寝ぼけたような顔で孔がティッシュの箱を投げてくれる。口にティッシュを当てて咳き込みながら、以前にもこんなことがあったなと風間は思った。
「なんだ、突然」
一度大きな咳払いをして風間は座りなおす。
「少し思った。思っただけ。居るのか」
「……」
言えるわけがない。
困って黙り込んでいると、孔は「その顔は居るなぁ」と言って嬉しそうに笑った。
「どんな女だ。教えろ」
「いや、その、――頼む、勘弁してくれ」
そもそも女ですらない。本人を目の前にして、そんなことが言えるわけがなかった。
「そう言う君はどうなんだ」
ごまかすように風間は聞いた。
「いいと思う女性は居ないのか」
不意に孔の笑顔が消えた。やはり困ったように薄く笑いながら目を伏せる。
「居るんだな」
動揺を隠す為にわざと風間は笑い、ビールを口に運んだ。そして、あの林という女の子だろうかと考えた。藤沢の駅員室で見た二人はやけに親しげだった。屈託のないかわいい子で、彼女なら孔が惹かれても当然だと、半ば無理やり自分に言い聞かせる。
もしかすると、彼女と待ち合わせをしていたのかも知れない。それで倒れて、運ばれた――。
彼女が電話に出るのも道理というものだ。
「だけど、駄目だ」
突然孔が言った。
「なにがだ?」
「私は、駄目だ」
「何故?」
それまでの酔いなどなかったかのように急に真面目な顔つきになって、孔は座りなおす。窓枠に寄りかかり、両膝を立てて、それを抱え込んだ。
「私は、中国人だ」
「――それがなんだというんだ。その人に言われたのか?」
孔は首を振る。
「言わない。言わない人だ。いい人だ。…だけど、駄目だ」
「外国人だからか?」
そう言うと、少し怯えたような表情をして、小さくうなずいた。
「なあ孔。私はこのあいだドイツへ行って、外国人になってきた。そうして日本へ戻って本国の人間になった」
孔はうかがうようにそっと顔を上げてこちらを見た。
「日本は基本的に単一民族だが、中国はそうではないのだろう?」
「ああ。上海も香港も北京も、言葉が違う。人も違う。いろんな人が居る」
「だが、みんな中国人だ」
「……」
「国境というものは人間が勝手にこしらえたものだ。戦争かなにかがあって日本がアメリカの植民地にでもされれば、まあ実際はどうなるかはわからないが、下手をすると明日からいきなりアメリカ国籍となるかも知れない。国なんてそんな程度のものだ」
「だけど、言葉が違う」
「中国のなかですら違う言葉を使っているのに、言葉が違うからお前は中国人ではないと、北京の人に言われたことがあるか?」
「…ない」
「だろう?」
風間が言わんとしていることがわかってきたらしい。孔の顔に笑顔が戻ってきた。
「話してみるといい。きっとわかってくれる。理解出来ないような頭の悪い女だったら、そんな女はよした方がいい。私なら御免だ」
「ゴメン? 何故謝る?」
「ああ――嫌だ、という意味だ」
「そうか、風間は頭のいい女が好きなんだな」
「…しまった、また矛先が戻ってきたな」
ごまかすように憮然と呟いて風間はビールを飲んだ。その姿を見て、孔はようやく声を上げて笑った。
「ありがとう」
――上手くいくといい。
思いの当てが誰だかは知らないが、それでも彼の支えになってくれるような人がそばに居てくれれば、自分も安心して離れていける。
――そうか?
わからなかった。だがもしそうなれば、ずっと今のままで居られるかも知れない、とは思う。親しい友人として、彼女に紹介され、二人の幸せな姿を見守っていける。
孔のことが心配だった、それは本当だ。彼が望んで幸せになる方法があるなら、それでいい。そうすれば、
――安心して裏切れる。
結局私は自分が一番かわいいのだな。うつむいて孔から顔を隠し、風間は自嘲気味に笑った。
「そろそろ帰るとしよう」
ビールを飲み干して風間は立ち上がった。下手に長居をしてこれ以上相談を受ける羽目になってはたまらない。
上着を着て靴を履き、扉を開けると、冷たい風が吹きつけてきた。
――孔は今、誰と一緒に。
遠いドイツで思ったことが不意に甦る。
この先もずっとこんなことが繰り返されるのか。不安になり、心配し、電話を待ち焦がれる辛い日々――。
「なあ、孔」
見送りの為に玄関先までついてきてくれた孔に、風間は振り返った。
「なんだ?」
「さっきの話なんだが――」
「さっきの話?」
一瞬だけ考え込み、それから大きくうなずいた。
「女か。言う気になったか」
気持ちを整える為に、風間はわざとゆっくり扉を閉めた。
「教えろ、どんな女だ」
「――その人は、上海の生まれでな」
「私と同じか」
驚いて聞き返す孔に向かって風間はうなずいてみせる。
「上海のどこだ」
「いや、詳しいことは知らない。それで、留学生でな」
「大学の女か?」
「違う」
おかしそうに笑う孔につられて、それでも困ったように小さく笑いながら、風間はビー玉のような目をみつめた。
「今…私の、目の前に居る」
笑顔が凍りつくとはこういうことかと、孔の顔を見て風間は思った。自分の口から飛び出た言葉が孔の耳から脳裏へと入り込み、中国語に変換されて、意味が理解される様が目に見えるようだった。
波が引くように孔の顔から表情が消えた。
「おやすみ」
最後に微笑んで、風間は扉を開けた。そして静かに扉を閉めると、冷たい風が吹きつける夜道に逃げるようにして駆け込んだ。
――終わったな。
これで、本当に終わった。
この道を歩くのも、今夜が最後だ。もう二度とここへは来るまい。いや――自分で、来られなくした。それだけだ。
こんなに簡単なことだとは思わなかった。全てを失うのはほんの一瞬で済んでしまうのだと知り、あまりの呆気なさに、思わず泣けた。