孔のアパートの狭い台所に二人は並んで立っていた。孔は腰に両手を当てて、中華鍋と、そのなかで跳ね回る野菜をじっとみつめている。不器用そうにお玉を動かしているのは風間だ。
「まだか」
「まだ。もう少し」
 やがて風間の手を止めさせると、孔はボウルに漬け込んでいた豚肉をタレと共に鍋に入れた。
「もう一度」
 そう言って炒めるように手まねをしてみせる。
「難しいな」
「簡単。風間が下手」
「仕方なかろう。こんなことをするのは初めてなんだ」
 困ったような風間の顔を見て、孔はけらけらと笑った。
 十一月の終わり頃、孔からまた電話をもらった。いつものように飯を食べに来いという誘いだったが、指定された時間が少し早かった。なんだろうと思ってアパートへ行くと、扉を開けた風間に向かって孔が「プレゼント」と言ってスーパーの買い物袋を差し出した。なかには豚肉のほかにキャベツ、ニンジン、ピーマンなど、恐らく肉野菜炒めが出来上がりそうな食材一式が詰まっている。
「…これをどうしろと」
「風間が私にゴチソウする」
「は?」
「風間が作る。たまにはいい」
 そうして包丁も握ったことのない風間の試練が始まったのだ。もっとも、あまりの不器用さに恐れをなした孔が、全部の下ごしらえをしてくれた。あとは炒めるだけという段になって風間と交代し、今肉も放り込まれ、ようやく最終段階へと至ったのだった。
 ――これは、料理をするとは、言わんな。
 勿論言わない。
 それでも孔は楽しそうだった。他のものは全て作っておいてくれたので、あとはこれを炒め終えるだけだ。火にあぶられたタレがいい匂いをかもし出し、自然と腹が鳴った。
「まだか、風間。まだか」
「頼むからそう焦らせないでくれ」
「私、お腹空いた」
「私もだ」
 二人は顔を見合わせて笑った。
 あの夏の夜以来、孔の笑顔はひどくやさしいものになったように感じられる。涙を流すことで胸の奥にしまいこんでいた悲しみや辛さを、ある程度までは吐き出すことが出来たようだ。全てと言い切れないのは、勿論孔が日本に残っている限り受ける悲しみがあるせいだ。故国を離れているという事実、そして「外国人」として差別されるという事実。差別しない人も当然居る。けれど、そうでない人も、悲しいけれどやはり居る。
 だからせめて自分と居る時ぐらいはそのことを忘れて欲しい。孔が笑うたびに風間はそう思う。
「もういい」
 火を止めて孔は風間と交代した。鍋を持ち上げて皿に盛る。それだけのことでも、やはり手慣れていると感心した。
「私には料理など出来そうもないな」
 早々指定席に腰をおろした風間は、皿を持ってきた孔に向かってそう言うと苦笑してみせた。
「風間も私と同じに暮らす。すぐに覚える」
「そうか?」
 あらためて自分の不器用さを認識させられて、そんなことは絶対に無理だと思った。
「初めはみんな下手。ケガをする。ケガをして、覚える」
「そんなものか」
「卓球と同じ。サーブ打てない、ネットにぶつかる。だけど練習、練習、上手くなる」
「なるほど」
 確かに初めは誰もが初心者だ。ビールのふたを開けながら風間はうなずく。
 最近は食卓に必ずビールが出るようになった。お互いそれほど飲むわけではないが、あると場がくつろぐことに気が付いて風間が土産代わりに持ってくるようにしていた。余った分は好きに飲んでいいと言ってあるのに、孔は絶対に飲まない。一人で飲むのは楽しくないから、風間が来ない限り開けないのだそうだ。
「バイト先で飲む人が居ると言っていなかったか?」
「居る。だけどその人とは店で飲む。バイト先、他の店」
 しゃっくりをして孔はうなずく。
「たくさん飲むからすぐになくなる」
「買った方が安く済むだろうに」
「時々その人の家で飲む。だけど部屋が煙草の匂い。嫌だ」
 そう言って孔は顔をしかめた。風間は思わず笑った。
「大学は、どうだ?」
「まあ、可もなく不可もなく…」
「高校と違うか」
「そうだな。違うといえば違う。だがそれほど違うわけでもない。ただ決まった自分の机がない程度かな」
 最初は自分の居場所がないような気がして戸惑ったが、部室もあるし、学食もある。会えば話をするような友達も出来た。それなりに楽しんでいる方だと思う。
「来月、ドイツへ行くことになった」
「ドイツ? 遊びにか?」
「まさか。学生連のヨーロッパ遠征で代表に選ばれたんだ」
 毎年冬に行われている親善試合だ。秋季大会で上位八位までの大学から各一名ずつ代表者を選出し、関東の代表としてヨーロッパを回ることになる。一番下っ端の自分が行くなどもってのほかと最初は断わったのだが、部のなかでの満場一致とあれば受けないわけにはいかない。勉強してこいという主将の言葉に、風間は深々と頭を下げた。
「ドイツか…」
 そう呟いて孔はふと宙をみつめた。
「寒いかな。うん、寒いな、きっと」
「そうだなぁ、寒いだろうなぁ」
 孔の言葉に同調して、風間は何度もうなずいた。
 実は目下の悩みがそれなのだ。ドイツへ行けるのは嬉しいが、とにかく寒さの苦手な自分だ、北海道よりも北にある地で風邪を引かないでいられる自信はない。常備薬は忘れないようにと今から準備もしていた。
「まあ無事に帰ってこられるよう祈っててくれ。なにか欲しい土産とかあるか?」
「土産…ドイツは、なんだ。ビールか」
「黒ビールに…ソーセージ? なんだかバカらしいな」
 孔はまた大口を開けて笑う。
「戻ったら電話をする」
「ああ」
 帰り際、玄関に立って風間は孔に微笑みかける。少しだけ部屋の方が高く作ってあるので、この時だけは殆ど目線が一緒の高さになる。真っ黒なビー玉のような瞳をみつめるたびに、また孔に触れたいというあらがいがたい衝動が湧き起こる。手が伸びないようにとこっそりズボンをつかみ、「じゃあ、また」と呟いて部屋を出る。孔は笑って手を振る。
「おやすみ」
「おやすみ」
 駅へ向かいながら風間は思う。いつまでこれが続けられるだろう。いつまで心やさしい友人面をしていられるだろう。
 ばれるのなら、早い方がいいのかも知れない。乗り換えの為に小田急線藤沢駅の改札口を抜けながら風間はこっそりと思った。早ければ早いほど彼を傷つけずに済む――。そう考えながらも、もしかしたらもはや既に手遅れで、手遅れであるならいっそのこと、最後の最後までうそをついてでもそばに居たい、そうも思った。
 自分のエゴの深さには、ほとほと呆れる。
 ホームで電車を待ちながら、風間はふと視線をさまよわせた。このホームのどこかで孔は倒れたという。滅多に乗らない筈の小田急線。
 あの日彼は、一体どこへ行こうとしていたのだろう?


 白い息を吐きながら風間は雑貨屋のドアを押し開けた。息苦しいほどの暖かさに包まれて、とたんに耳と頬が熱くなる。「いらっしゃいませ」という意味のドイツ語が耳に飛び込んできて、顔を上げると、レジのところに老人が座って新聞を読んでいた。
 何度聞いても、その言葉が覚えられない。
 海外へ出るのはこれが初めてではないが、孔と親しくなってからあらためてコミュニケーションの重要さを認識するようになった。孔の言うとおりだ、少しは勉強した方がいいのかも知れない。
 なんとなく口寂しくなって飴でも買おうと思って入ったのだが、棚の商品を眺めている時にふと紅茶の缶が目に入った。
 ――まあ、お茶といえばお茶だな。
 飴の袋と一緒に缶を一つ手に取って風間はレジに置いた。袋に入れてもらいながらふと窓の外を眺める。どんよりと厚い雲が空一面に広がっており、なんとなく落ち着かない。
 日本は今、どんな天気なんだろう。離れているからこそ余計に気になってしまう。
 ――孔は今、誰と一緒に居るんだろう。


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