「…僕の故郷はメキシコに近いところにあってね、大きな油田があるだけで、ほかにはなんにもない寂しい町なんだ。町の殆どの男が精油所に勤めてて、奥さんは噂話をするのが仕事っていう、本当に退屈な町でさ…」
 ジェイの腕枕でベッドに横になりながら、ペコはじっと声に耳を澄ませている。互いに向かい合って、ジェイは話をしながらペコの髪を撫で、ペコはそうするジェイの肩に手を置いている。
「町の人間はヒスパニックが殆どだから、学校に上がるまで英語は喋れなかった。片言で挨拶するぐらいは出来たけど、それだけだ。なんで英語を勉強しなきゃいけないんだろうって思ったほどだよ。一応国籍はアメリカなんだけどね」
 そう言ってジェイは小さく笑い、ペコの額にそっと唇を触れた。
「…そういうの、日本じゃ考えらんねぇよな」
「だろうね。もっとも、アメリカが移民たちの手で作られた国だからしょうがないんだろうけど。日本の民族はずっとあの島に住んでるんだろ?」
「うん…確か、そう」
「僕らのご先祖様はさ、もともと人が住んでた土地を勝手に自分たちのものにして、ちょっとぐらい文明が遅れてるからっていってその人たちを未開人だなんだってバカにしてさ、…そういう、勝手な人種の集まりなんだよ、アメリカは」
「…あんまり好きじゃねえんだ」
「そうだね…」
 ジェイはベッドに横になり、薄暗い天井をみつめた。
「いいところもあるし、悪いところもある。好きだったり嫌いだったり、まあ一口で言うのは簡単じゃないな。ペコも、そうだろ?」
 ジェイの言葉に、ペコは首をひねった。
 確かに一言で好きか嫌いかを言い切るのは難しい。外国へ出たことによって日本の嫌なところがたくさん見えるようにはなったけれど、腐っても故郷だ。あの江ノ島の海が懐かしいとしょっちゅう思うことがある。
 ふとジェイの手がまた髪にかかり、ペコは顔を上げた。ベッドの脇のランプに照らされて、ジェイの緑色の目がそっとうかがうようにのぞき込んでいる。
「涙は止まった?」
「ん…」
 子供のように泣きじゃくったことが恥ずかしくて、ペコはジェイの背中に腕を回して抱きつき、顔を隠した。ジェイはやさしく抱き返し、なだめるように頭を撫でてくれる。
「びっくりしたよ、いきなりあんなに泣くんだもん」
「悪かったよ…」
「泣くほどいいのかと思った」
「ば…っ」
 あわてて顔を上げると、ジェイはくすくすと笑って、そっと唇を重ねてきた。
「いいんだよ、別に。悲しいなら泣いたってさ。気持ちは表わすために存在してるんだ、使ってあげなきゃかわいそうだよ」
「……」
 暗がりのなかで、ジェイの瞳は驚くほどやさしい。
「…なんで、そんなに大人なの」
「え?」
「なんか、人生悟りきってるみてえな感じでさ。なにあっても動じなさそうじゃん」
「そんなことはないよ。僕だってペコと一緒に住んでた頃は、自分を抑えるのにすごいすごい必死だったんだから」
「そういう意味じゃなくってさ」
 呆れてペコはジェイの腕から逃れ、ベッドに片肘を付いて顔をみつめた。
「なんでそんなに強いんだよ」
「…残念ながら、卓球じゃペコに勝てないけどね」
「ジェイ」
 ジェイはごまかすようにくすくす笑っている。
「強くなんかないよ」
 そう言ってまたペコの髪に手を伸ばした。
「もしそう見えるんなら、多分僕の強みは、自分が弱いって知ってることだ」
「…どゆこと?」
「身の程を知ってるんだよ。…強くなんかない」
 そう言ったジェイの目がひどく寂しそうで、ペコはまたベッドに横になり、じっと目をみつめた。
「でも…そうだな、もしかしたらある意味では強いのかも知れない」
「……」
「知ってる? 人間はね、いつか死ぬんだよ」
「…知ってるよ」
「こんなふうに仲良くベッドで一緒になっててもね、いつかは別々に死んじゃうんだ」
 なにかとんでもないことを聞き出そうとしてしまったのかも知れないと思い、ふとペコは恐怖に駆られた。それはジェイを不快にさせることを恐れたのではなく、自分がジェイの話を受け止められるのか、それをただ恐れたのだった。
 悔しいが、自分はまだ子供だ。ジェイと同じ歳になるまでにはあと六年もかかるのだ。
 動揺が顔に表われていたのだろう、ジェイはふと小さく笑ってそっとペコを抱き寄せた。
「長くなるかも知れないけど、いい?」
「…ジェイが嫌じゃないんだったら」
 ジェイの腕に身を任せながらペコは呟いた。そっとジェイの首筋に手を触れて、えりあしを指でもてあそびながら言葉を待つ。
 ジェイはゆっくりとペコの頭を撫でながら、どこか遠くをみつめた。
 そうしてジェイの話が始まった。


 僕には叔母さんが二人居たんだ。一人は学者と結婚して、今ボストンに住んでる。もう一人の叔母さんも結婚はしたんだけど、旦那さんと上手くいかなくてね、離婚して僕の家の離れに猫と一緒に住んでた。
 うちは言ってみれば貧乏人の子沢山でさ、姉が一人の兄が一人、で僕の下に妹が一人居る。それで父親の稼ぎなんてたいしてないから、両親はいっつもケンカばかりしてた。
 僕は昔から気が弱かったからケンカが始まるとすぐにベッドにもぐりこんで震えてたよ。ぎゅうっと目をつぶってさ、頭から毛布をかぶって、とにかく寝ようとしたんだ。眠っちゃえば全部忘れる、朝になればケンカは終わってる、そう思ってひたすら眠ろうとした。
 …あんまり、いい家じゃなかったのは確かだね。まあ案外平均的なのかも知れないけど。
 まだ学校に上がる前はしょっちゅう離れの叔母さんのところに避難してたよ。家に居るとなにかと手伝いをさせられるし、正直、母親はいつも怒っているような人だったから、あまり好きじゃなかったんだ。
 叔母さんはおとなしい人でね、夕方になるとポーチにイスを出してさ、猫を膝に抱いてぼーっと外を眺めてた。今でも思い出すよ、夕焼けのなかでじっとどこかみつめたまま、石像みたいに固まってる叔母さんの横顔をさ。
 学校へ行くようになってからも、よく叔母さんのところへ行ってたな。友達もそんなに多くなかったし、誰かと駆けっこをして遊ぶよりは本を読む方が好きだったんだ。信じられる? 僕はね、卓球を始めるまでは自分のことを運動嫌いだと思ってたんだよ。
 まあともかくさ、あれは幾つの時だったかな…多分七つぐらいの時かな。日曜に家族揃って教会へ行くんだ。一応敬虔なカソリックだからね。そういうことは怠らないんだ。
 それで、僕が叔母さんを呼びに行ったんだよ。一緒に教会まで行くのが好きだった。いつも手をつないでくれてさ。
 ――叔母さん、教会行く時間だよ。
 玄関の外からそう声をかけても、聞こえてくるのは猫の鳴き声だけ。しかも鍵が開いてるんだ。我が家よりも下手に馴染みのある場所だったからさ、僕も平気で入っていったんだよ。鍵が開きっぱなしなのはいつものことだったしさ。
 なかに入ると、薄暗いんだ。カーテンが閉まりきりで、ようやくおかしいと思った。それでも、なにかあって寝坊したんだと思ってさ。ずっと奥まで入っていったんだよ。


 ペコは思わず身を硬くした。絶対に嫌なことだ、そう思ったけれど、今更ジェイの口を封じるわけにはいかない。
 そっと息を殺してペコは話の続きを待った。
「…まだ聞く?」
「……」
 なんと答えたら良いのかわからない。ジェイに話をさせたのは自分だ。今更嫌とも言えないし、かといってこれ以上話させるのも酷のような気がした。
「怖い夢見るかもよ」
「…いいよ、それぐらい」
 ジェイは小さく笑って、そっとペコの額にキスをする。


back シリーズ小説入口へ next