ペコは道を歩きながらふとジェイの横顔を見上げて、
 ――やっぱ似てんだよなぁ。
 そう思って少し寂しくなった。一緒に暮らしていた頃、何度か間違えてスマイルと呼びかけそうになったこともある。今のように離れられたことは、寂しい反面、有り難くもあった。
 いい加減、一人の生活に慣れなければ。
「なに?」
 ペコの視線に気付いて、ジェイが足を止めた。
「…コーラある?」
「あるよ。アパート着いたら好きなだけ飲んでいいから、ほら、もうちょっと」
「俺、帰るつもりだったんだけどなぁ」
「明日は早いの?」
「いんや。別になにもない。ジェイは?」
「僕も別に。いつも通りトレーニングするだけ」
「…ツアーが始まるなぁ」
「そうだね」
 勝つか負けるか、ただそれだけの世界。なんの迷いもなく前へと突き進むことの出来る、理想的な世界。
 自ら望んでそこへ飛び込んだ筈なのに。
 ――なんか、俺って、バカみてえ?
 近頃のペコは、あまりにグチグチと悩み続けている自分を、本当にバカなのではないだろうかと思い始めていた。いくら悩んだとて、悩むだけで現状が変わるわけではない。もともとそんなに悩むのが得意だったわけでもなく、それでもやっぱり悩むことを止められない自分が、本当に腹立たしくてたまらない。
「はい、到着」
 そう言って部屋の鍵を開けると、ジェイはペコの体をソファーに投げ出した。そうしておいて台所へゆき、冷蔵庫からコーラの缶を二つ取り出す。
「はい、どうぞ」
「サンキュ…」
 缶を受け取ってふたを開け、ちびちびと飲みながらペコはまた窓際へ行った。カーテンの隙間から外を見るが、町はもはや暗がりに沈んでおり、空の闇は深く、ただ街灯と家々の明かりだけが静かに闇を照らしている。
 日本が恋しいと思ってしまうのは、こういう瞬間だ。
「なにかあったの?」
 不意にジェイが聞いた。振り返るとジェイはソファーに腰をおろして、同じようにコーラを飲みながらペコの姿を見上げていた。
「…別に」
 つられたようにペコもソファーに腰をおろし、缶をテーブルに置くと、今更のように上着を脱いだ。
「なんもねえよ。チームの奴らもトレーナーも、監督まで俺のことペコペコっつってかわいがってくれるしさ」
「違うよ、日本でだよ」
 ジェイはいつものおだやかな緑色の瞳でペコをみつめる。
「話振ったとたんに暗い顔してさ。元チームメイトとしては気になって仕方ないんだけど?」
「……」
「…聞かない方がいいなら、そうするよ」
 ――なんでこいつはこんなに大人なんだ。
 くだらないことでずっと悩み続けている自分からすれば、ジェイの居る境地に達するには果てし無いほどの時間が必要であるように感じられる。
 本当に、早く大人になりたいとペコは思った。だがそれも、やっぱりジェイが言ったとおり、ただ歳を取るだけではきっと意味のないことなのだろう。
「…特に、なんかあったわけじゃ、ねえけど」
 そう言いながらも、スマイルのことを話そうかどうしようか迷っていた。けれどどう話したら良いのか見当もつかない。恋人と離れて寂しいと言ったところで、誰にもどうしようもないことだ。それに、
 ――恋人なんかじゃねえし。
 それはペコのなかで、今も昔も変わっていない。
「無理に話せとは言わないよ。秘密をあばきたいわけじゃないんだし」
 そう言ってジェイは微笑んだ。そうしてふと顔を寄せてきたと思ったとたんに、まるで鳥が餌でもついばむかのように軽く唇を触れて離れていった。
「泣いてる子供にはスキンシップが一番」
 そう言っていたずらっ子のように笑う。そのまま立ち上がったジェイの顔をペコはふとみつめてしまった。その視線に気付いてジェイは「もう一回する?」と冗談のように聞いてきた。
 物欲しげな顔をしていたのかと恥ずかしくなってペコはうつむいたが、迷いながらも小さくうなずくと、ジェイはなにも言わずに、ソファーに腰をおろしてそっとペコの頬に手をかけた。
 上を向くと、緑色の不思議な目がみつめている。その視線をよけるようにペコはまぶたを伏せながら静かに唇を重ねた。触れては離れ、また触れる。そうするうちに止まらなくなって、どちらからともなく舌を絡めあう。
「ん…っ」
 気が付くとペコはジェイの首にしがみつきながら夢中で口付けを交わしていた。ジェイの腕が背中に回り、抱き寄せられるその感覚に酔いしれている。鼻にかかった甘い声が時折洩れて、そのたびに恥ずかしくなり、そうしながらもペコは心の底で情欲の種に火が付くのを止められなかった。
 唇が離れていってしまうのが、寂しくてたまらない。
「…そんな目、しないでよ」
 微笑みながらも、困ったようにジェイが言う。
「我慢出来なくなるだろ」
 首に回ったペコの腕をそっとはずして、
「せっかく今の今まで頑張って仲のいい友達やってきたんだからさ、僕の努力を無駄にさせないでくれよ」
 そう言ってペコの頬に軽く唇を触れると、ジェイはそれまでの空気を払うかのように勢い良く立ち上がった。
「寝る前にシャワー浴びる? 着替えは」
 ペコはうつむいたまま、ジェイの洋服をつかんだ。その感触に気付いてジェイは振り返り、
「……ペコぉ」
「努力、無駄にさせて、悪いけど」
「…言ってる意味、わかってる?」
 ペコは小さくうなずいた。
「俺だって、ガキじゃねえんだよ」
「そうだけどさ」
 困惑したようにジェイは小さくため息をついてソファーに腰をおろした。そうして、うかがうようにペコの顔をのぞきこむ。
「僕、一年も我慢したんだけどな」
「…嫌なら、別にいいけど」
「――嫌じゃないから困ってるんだろ」
 そう言って苦笑する。
「いいの?」
 ひどく真剣な眼差しでみつめられて、ペコは恥ずかしくてたまらない。
「…確認するなよ」
 口元は真剣なままなのに、目だけがふと笑い、
「苦情は受け付けないぞ」
 そう言って重ねてきた唇は、ひどくやさしかった。


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