「夕飯食べた?」
ソファーに腰をおろしながらジェイが聞く。「まだ」と答えると、
「じゃあコーヒー飲んだら食べに行こう。少し歩くけど、いい店があるんだ」
「一人で住んでるんだ」
部屋に振り返ってペコは聞く。
「ご覧のとおりのボロ屋だろ? シャワーは時々お湯が出ないし、スチームも少しいかれてるらしいんだ。お陰で安く借りられたよ」
そう言ってジェイは笑った。
「シェアリングも考えたけど、また誰かさんのうるさいイビキ聞くぐらいなら一人の方が気楽でいいと思ってさ」
「俺、イビキなんかしてた?」
「時々ね」
くすくす笑いをこらえながらジェイはカップを口に運ぶ。恥ずかしくなってペコもごまかすようにコーヒーを飲んだ。
遠くで教会の鐘が鳴っている。ふと視線を窓の外に投げて、静かでいいなとペコは思った。
「髪、切ったんだね」
不意にジェイが呟いた。
「ああ。気分転換にと思って、ばっさりいっちまった」
幼い頃からのトレードマークであったおかっぱ頭は、日本から戻ってきた翌日に切ってしまった。特に誰かに言われたわけではなかったが、もう昔の自分には戻らないぞという自分に向けた決意表明の意味を込めて朝一番に散髪屋へ行ったのだった。最初の頃は少し物足りない気もしたが、今ではさすがに慣れてきた。
「最初見た時は誰だかわからなかったよ」
「変か?」
「まさか。普通の人に見えるよ」
「じゃあ今まではどうだったんだよ」
苦い顔をしてそう聞くと、ジェイは大口を開けて笑った。
ジェイが連れていってくれたのは広いながらも落ち着いた雰囲気のいい店で、ビールの種類が豊富だった。ペコは一杯ずつ味見をするつもりで全種類頼もうと奮闘したが、
「二十三杯も飲めるの?」
残念ながら八杯でダウンした。
「前から思ってたけど、ペコって無茶するの好きだよね」
酔いの回った目でテーブルに頬杖を突きながら、ぐらぐらと舟を漕いでいるペコを見て、呆れたようにジェイが言う。
「若いうちに無茶しないでいつするんすか、お兄さん」
「それは僕に対する嫌味ですか、少年よ」
「たって、ジェイだってまだわっかいだろ。幾つよ、今年」
「二十六だよ。先月誕生日でした」
「そりゃあおめでとう」
そう言ってペコはグラスをぶつけた。そうしてビールを飲み干そうとしたが、さすがに酔いがひどくて飲む気になれない。口をつけただけでぼんやりとテーブルの上に視線をさまよわせた。
「日本はどうだった?」
ジェイの呟きにペコは目を上げる。
「一年振りの故郷はさ。なにも変わりなかった?」
「…まあな」
変わりはなかった。それが一番の問題でもある。
『あと一年だけ迷惑かけさせて』
――んだよ、スマイルの野郎、勝手なこと言いやがって。
酔いにかまけてペコは心の内で愚痴る。
結局殆ど変わりはないのだ。相変わらず気が付けばスマイルのことを考えており、やっぱり寂しくなったり会いたくなったりして、まいってしまう。
せっかく一部リーグに移籍出来たのだからなにも余計なことは考えずに専念したい。それは去年から引き続き思っていることだった。可能な状況には居る。それでも専心出来ないのは、おのれの未熟さゆえなのだろうか。
「早く歳取りてえよ」
酔いの回った口調でペコは呟いた。ジェイは驚いて目を見張る。
「なんだよ、それ」
「…早く人生悟ってさぁ、くっだらねぇことにいちいちまごつきたくねえってこと。なんか、卓球しにドイツくんだりまで来てんのにさぁ、ばっからしいじゃんかよ」
「まあねえ。だけど、いたずらに歳取ったからって、それでイコール大人っていうわけでもないからなあ」
「お兄さん、人がせっかく決意固めてんのに、ぶち壊しにするようなこと言わねえでくれる」
「それは失礼」
ジェイはくすくす笑いながらグラスに残るビールを飲み干した。そうしておいて、通りかかったウェイトレスにチェックアウトを頼む。
「そろそろ行こう」
「えー、もう?」
「もうって、もう飲めないだろ? 頼むよ、アパートまでペコ引きずりたくないし」
「へえへえ」
だが、確かにもう酒は一滴も入らなそうだ。グラスを置いてペコは立ち上がり、かけていた上着を羽織って外に出た。乾いた山の空気が町を静かに包んでいる。街灯に寄りかかりながらペコはジェイを待った。
「金、明日でいい?」
「いいよ別に。今日は僕のおごり」
「マジっすか。いいんすか。ありがとっす」
ぱちんと音を立ててペコは両手を合わせ、頭を下げた。ジェイは苦笑してペコの腕を取り、ゆっくりと歩き出した。
「その代わり、頼むからアパートまでは寝ないでくれよ」
「オッケーっすよ。全然余裕」
そう言いながらも、だいぶ足元がふらついている。
「飲みすぎだよ、まったく」
「んなことねえよ。…いや、あるか?」
「あります」
それでも肌寒い空気に包まれているお陰で気分は悪くない。酔いに身を任せながらも、どこか頭の奥がすうと冴え渡るような感じがあった。