ペコが濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながらシャワールームを出ると、運動用のスウェットに着替えたワーナーがロッカーに荷物を放り込んでいるところだった。
「あれ? 具合悪くて休んでるんじゃなかったっけ?」
声に顔を上げたワーナーは、ペコの姿を目に止めると、「よお」と笑ってみせた。
「あんまり休んでばかりもいられないだろ。軽く体動かしに来たんだ」
「ご老体は無理しない方がいいんでないの」
からかうように言いながらペコはベンチに腰かける。
「ちょっと若いからっていい気になるなよ」
そう言うとワーナーはわざとむっとしたような顔を作り、ペコの頭を軽く小突いた。
ワーナーはオーストリア出身の選手で、今年三十二歳になるベテランである。一部リーグで長いこと活躍しており、ペコにとっては大先輩である筈なのだが、こんなふうに軽口を叩いても笑って許されるのはペコの人徳でもあり、ワーナーの懐の深さゆえであろう。
「ペコこそ早いな。もう上がるのか」
「うん。ちょっと友達に会いに行くんだ」
「友達って、ガールフレンドか?」
「――まあな」
にやりと笑ってペコはロッカーから私服を取り出した。
「身長百八十九センチの、かわいい子だよ」
「なんだ、そりゃ。俺よりでかいな」
呆れたように言ってワーナーは肩をすくめた。
「前のチームで一緒だった奴なんだ。今、ヒルデスハイムに居る」
三部リーグのチームがある町だ。それで納得したようである。ワーナーは深くは追究せず、「ガールフレンドによろしく」とだけ呟くと、片手を上げてジムへと消えた。
ペコは長袖のトレーナーをかぶり、ジーパンをはく。そうして薄手の上着を小脇に抱えて玄関へと向かった。
七月とはいえ、ドイツの夏は涼しい。
湿気がない分、日本よりずっと過ごしやすく、夜ともなれば肌寒いぐらいである。調子に乗って薄着で居ると、下手をしたらカゼをひく。九月からあらたにツアーが開催されるので体調を崩すわけにはいかない。自己管理は仕事のうちでもある。
日本でビザの更新を済ませてアパートに戻ると、ジェイは予言どおり姿を消していた。部屋はもぬけの殻で、自分で居間に持ち込んだ調度品も当然のように持ち去っていた。たった一年共に生活しただけなのに(時にはその存在が苛立たしいと思うことすらあったのに)、煙のように呆気なく消えられてしまうと、さすがに寂しさを覚えた。
ハノーバーでは一人で部屋を借りている。今更誰かとルームシェアをする必要はなく、その為の資金も充分あった。新しいチームに馴染むうちに寂しさは忘れたが、それでも時折、人恋しいと思ってしまうことがある。
日本は遠い。
内陸へ移動したお陰で海からも遠くなった。異国に居るのだという意識は、ハンブルクに居た頃よりも強くペコのなかに存在していた。
駅へ向かう途中で酒屋に寄り、美味そうなワインを二本ほど選んでもらって買った。ドイツといえばビールという図式しかなかったが、レストランで出される国産ワインも意外といけた。引っ越し祝いになにもないのは寂しいし、気取った贈り物をするのは苦手だ。多少の荷物になるが、ヒルデスハイムに着いてから慣れない土地で店を探し回るよりはいい。
改札口を抜けて人ごみをよけながらペコは壁にかかるホームの表示を見上げる。立ち止まってポケットから紙切れを取り出し、文字を見比べていながらも、目の端を様々な人種が通り過ぎてゆくのがわかった。
当たり前のように日本人は自分一人しか見当たらない。時折アジア系の顔も見えはするが、不思議と風景に溶け込んでしまっている。
日本を出て初めて思ったことだが、恐らく日本ほど「外国人」に対する排斥の念が強い国は滅多にないのではなかろうか。相手がなにを考えているのかわからないのは日本人同士でも同じである筈なのに、なあなあで済ませてしまうおかしな癖を日本では生まれた時から染み込まされている。ドイツへ来てペコは初めてそのことに気が付いた。
そういう意味では実はジェイと一緒に暮らすのは楽ではなかった。けれどプロとして試合をこなし、外国人としてドイツで暮らすうちに、むしろおかしいのは日本のやり方を通そうとしている自分の方だと気付いたのだ。ここは日本ではなく、しかもさほど強く望まれてドイツに居るわけでもない。帰りたければお好きにどうぞ、そう言われて放り出されたらおしまいだ。
郷に入っては郷に従え。
――昔の人は上手いことを言う。
車両に乗り込んで座席に腰をおろしながらペコは小さくうなずいた。
ヒルデスハイムまでは各駅停車でも一時間ほどしかかからなかった。駅前の広場でタクシーを拾い、紙に書かれた住所を示して運んでもらう。さほど駅から離れてはいないようだったが、込み入った道を右に左にと曲がるので、とてもじゃないが覚えられない。
「ここだよ」
そう言って降ろされたアパートは四階建ての石造りの建物だった。のどかな町の風景に馴染んではいるが、一言で言ってしまえば、
「ふっるー」
思わず口をついて出たペコの呟きを耳に止めて、通行人がこちらを振り返った。ペコはあわてて手元の紙切れに視線を落とし、ジェイが書き残していった住所とたがいないかを確認した。
間違いない。ここだ。
玄関に並ぶ郵便受けにもちゃんとジェイの名前が書いてある。とはいっても、実際になんと発音するのかペコは未だに知らない。覚えなくても「ジェイでいいよ」と言ってくれたので、ずっと甘えていた。
薄暗い階段を三階まで昇り、ジェイの部屋の前に立つ。そうして呼び鈴を押し、しばらく待った。だが考えてみれば今日行くと連絡を入れたわけではない。昔一緒に住んでいた時の一日の流れからいって、大体この時間には居るだろうと見当をつけて勝手にやってきだけだ。これで留守だとしても文句を言えた義理ではなかった。
けれどジェイは居た。ドアノブががちゃりと音をたてて回るのを見て、ペコは本心からほっとした。
「はい」
久し振りに見るジェイはどこも変わっていなかった。のしかかってくるほどの長身で、それでも緑色のやさしい目でこちらを見下ろし、目をまん丸に見開いてみせる。
「ペコ!?」
「よお」
「なんだ、来るなら連絡くれれば良かったのに」
「ちょっと驚かしてやろうと思ってさ。――ほい、プレゼント」
そう言ってペコはいたずらっ子のように笑いながらワインを差し出した。
「サンキュー。入りなよ、狭いけど」
「お邪魔しまーす」
笑顔でワインを受け取りながらジェイは体を引いて部屋に招き入れてくれた。玄関を入ってすぐがダイニングとなっており、あまり広くない台所が隣接していた。奥が寝室のようだ。ペコは上着をソファーに放ると勢い良く腰をおろした。そうしておきながらすぐに立ち上がって窓からの眺めに目を凝らす。
「なんにもないだろ」
苦笑しながらジェイがコーヒーの入ったカップを手渡してくれた。ブラックのまま口につけて、ペコは出窓にそっと腰かける。
町は夕焼けに染まりながら静かに動いていた。山の稜線が空を切り取って早々と暗がりに沈んでいる。時折空に伸びて見えるのは工場の煙突のようだ。のどか、と言えば聞こえはいいが、多分田舎と言ってしまう方が表現としてはぴったりだろう。
「ハノーバーからそんなに離れてるわけじゃないんだけどね」
「電車で一時間だった。急行乗ればもっと早いんだろうな」
ジェイは壁に寄りかかるようにしてペコの向かいに立った。
「新しいチームはどう? もう慣れた?」
「なんとかな。ジェイは?」
「こっちも、まあなんとかね。来月のあたまからツアーが始まるから、今頑張って調整してるところ」
「早いな」
「三部はチームの数が多いんだよ。総当りでいくなら早い時期から始めないと」
「へえ…」
悪い時期に来てしまったかとペコは少し後悔した。邪魔にならなければ良いのだが。