小泉の家を辞する時、
「なあ月本」
ふと呼び止められた。
「私が昔、辛い時に使っていたおまじないを教えてあげようか?」
「お願いします」
「――神様は耐えられる人にしか試練を与えない」
「神様は…?」
「耐えられる人にしか、試練を与えない、だ。今受けている苦しみは、自分が乗り越えられると思ったからこそ与えられたのだとな。そう思って頑張った」
「いい言葉ですね」
「もっとも、今じゃそんな言葉など使いもせんし、信じてもおらんがな」
そう言って小泉はまた笑う。
「どうしてですか?」
「神様は、誰にも、どんな人にも、試練や課題など与えないからさ。ただその人がこなすべき課題があるだけだ。それをただの苦痛と受け取るか、はたまた成長の為の踏み台と受け取るかは、その人の自由だがね」
「……」
「またいつでもおいで。良かったら先に連絡をもらえると有り難いな。うちのが、私以外の人間に料理を作りたくてうずうずしているようなんだ」
「――はい」
スマイルは深々と頭を下げて小泉と別れた。そうして道を歩きながらまた梅の花をみつけ、花には花の大変さがあるのかなとふと思った。
寒い空気のなかで小さく開いた梅の花を眺めながら、早くペコ帰ってこないかなとまた考えて、スマイルはとぼとぼと道を行く。
三月に入ると暖かい日が続いた。そのせいか今年はいつもより早く桜が開花した。ある日、孔のアパートの近所にある公園へ夜桜見物に出かけた。ビールとつまみを持って、少し肌寒い空気のなかで、ベンチに腰かけながら桜を見た。「変なところ触るなっ」と孔に怒られながら、春の宵闇のなかで静かに抱き合った。
闇のなかで孔の甘い匂いは一層強く、かすかな桜の香りと共に、それは幸せの匂いとしてスマイルのなかで記憶された。孔に言われたどんな言葉よりも確実に孔の存在を残すものとなった。
そばに居なくても時折似たような匂いをかぐことがあって、それがなんの匂いなのか発見することが出来ないまま、スマイルはいつも幸せを思い出し、小さく笑った。腕のなかの温もりを思い出して、どんな時でも嬉しくなった。
本当は、いつまでもそんなふうに、幸せを抱いていたいと思っていたけれど。
三月も終わりに近付いた頃、また孔から電話をもらった。鍋を作るから食べに来いと言うのだ。この冬最後の鍋だという。
「鍋好きだね」
と言うと、
「楽だからいい」
素っ気無い言葉が返ってきた。
最近、孔はあまり煙草を吸わなくなった。税金が上がって煙草の値段が高くなったせいもあるようだ。それでも食後の一服はやめられないと言って孔は笑う。
いつものようにベッドに寄りかかりながら、スマイルは孔の体を抱きしめている。
煙を吐き出す孔の邪魔をするように、首筋にキスを繰り返してはぎゅうと抱きしめる。くすくすと笑いながら孔は煙草を消して灰皿を押しやり、スマイルの手を握りしめる。かすかに冷たい手を握り返して、そっと手の甲に唇を触れて、そうして振り向いた孔に口付ける。鼻にかかった甘い声が洩れるのを聞きながら、抱き合って、深く舌を絡めあう。そうして潤んだ瞳を見下ろして、スマイルは小さく笑った。
「ねえ」
「なんだ」
孔の手を放してスマイルはジーパンのポケットを探った。二重リングでまとめた鍵束と、そこからはずしておいた一本の鍵を取り出して、はずしておいた方の鍵を孔の手に握らせた。
「ありがとう。返すよ」
孔はまじまじと鍵をみつめて、
「…ここの鍵か」
「そう」
そうして、驚いたように振り向いた。
「もう…来ないのか?」
「うん」
「…そうか」
孔はふっと表情を消してスマイルの腕から逃れ、立ち上がった。そうして少し迷う素振りを見せながら台所へと歩いていった。
「遅くまで悪かったな。気を付けて帰れ」
「――孔」
「棚に借りた本がある。忘れないで持っていけよ」
「孔」
「なんだ」
「…そんな乱暴に洗うと、お皿割れるよ」
流しに立ちながら、すぐ脇に居るスマイルの方は振り向きもせずに、孔は言葉をしぼり出した。
「…お前には、関係ない」
泣きそうなのを必死にこらえている瞳が見えた。スマイルは困惑しながらも微笑みかけて、
「ね、ちょっとでいいから僕の話聞いて」
そう言って孔の袖を引いた。ためらいながらも孔は水道を止め、導かれるまま部屋へと戻った。そうしてベッドに腰かけてじっとうつむいた。スマイルはその孔の顔をのぞきこむようにして床に座る。孔は視線から逃れようとふと顔をそむけた。
「誤解しないで欲しいんだけど、別に孔のことが嫌いになったわけじゃないんだ」
スマイルはベッドに片肘をかけて話し始めた。
「孔のことは大好きだし、ずっと遊びに来たいと思ってる。また一緒にご飯食べたりさ、お酒飲んだりしてさ」
「…だったら」
「うん。だけどね、今のまんまじゃ駄目なんだよ。今のままだと、どうしたって孔の前の人が気になっちゃうしさ、僕も、どこかで孔のことを身代わりにしちゃうんだ。…まあ、最初がそうだったから、僕が一方的に悪いんだけど」
身代わり、と聞いて孔はかすかに身を震わせた。
「誤解しないでね。確かに最初は身代わりにしてたよ、それは認める。だけど今は違うんだ。こんな状況でなに言ってもうそ臭く聞こえるかも知れないけど、本当に孔のことが好きなんだよ。それだけは信じて」
そう言うと、ようやく孔はこちらを向いた。スマイルを見下ろして、小さく、
「そんなこと、知ってる」
「ありがと」
スマイルはかすかに笑って、そっと孔の膝に手を置いた。孔はうつむいたままその指をゆるく握った。
「孔のことが好きだから、今のままじゃ駄目なんだよ。同じことの繰り返しになっちゃう。またひどいこと言ってさ、絶対に傷つけると思うんだ。だから勝手な言い種だけど、一旦白紙に戻したいんだよね」
「白紙に…?」
「『白紙に戻す』。意味わかる?」
「わかる」
指を握る孔の手の冷たさが気持ち良かった。スマイルも指を動かして、二人は孔の膝の上で手を握り合った。
「一度別れてさ、全然関係ない状態になりたいんだ。本当はずっとこんなふうにしてたいけど、今のまま続けてたら、孔はいいって言ってくれるかも知れないけど、僕が駄目なんだ。…もう孔のこと、傷つけたくないんだよ」
「……わかった」
そう呟いて、孔はかすかに涙を流した。
「ありがとう…」
スマイルも呟き返し、ふと腰を上げた。そうして孔の隣に腰かけて、そっと頭を撫でた。
「ごめんね、勝手なこと言って」
そう言うと、孔は小さく首を横に振った。
「またどこかで出会ってさ、お互い好きになったら、その時もう一回始めようよ。こんなふうに一緒にご飯食べたりさ、どこか遊び行ったり…まあ、出来たらケンカの回数は減らそうね」
スマイルの言葉に、孔はくすりと笑いを洩らした。そうしてぎゅうと手を握りしめる。スマイルも握り返しながら持ち上げて、そっと唇を触れた。恐る恐る顔を上げた孔に笑いかけて、探り合うように唇を合わせ、長いキスをする。
不意に孔が手を放して抱きついてきた。スマイルも同じように孔の体を抱き返して頭を撫で、いつもの、甘い香りに包まれた。
「ありがとう。孔のお陰で気付けたよ」
そう言うと、孔は体を離して不思議そうにスマイルをみつめた。
「私はなにもしていない」
「孔が言っただろ? 『忘れるな』ってさ。あれがずっと頭に残ってたんだ。そのせいで、どうにかしなくちゃって思えた。それに、ひどいことしても許してくれたりさ、こんなふうにご飯呼んでくれたり…」
そうして、ただ生きていてくれた。
「だから踏ん切りつける気になれたんだ。孔のお陰だよ。…ありがとう」
そう言ってスマイルはまた孔に口付ける。唇を離すと、孔はまだ不思議そうな顔で、どこかぼぉっとしたようにスマイルをみつめている。「なに?」と聞くと、
「…そう言えば良かったのか」
ぽつりと呟いた。
「あんな言い方をする必要はなかったんだな」
「――前の人のこと?」
そう聞くと、孔は小さくうなずいた。
「どう言えばいいのかわからなかった。だから『もう来るな』と…」
そう言ってうつむいてしまう。
「…今からでも、遅くないんじゃない?」
「……」
孔はうかがうように顔を上げたが、またうつむいて、小さく首を振った。
「駄目だ。会ってくれない」
「電話は?」
「知ってる。だけど、わからない。携帯だけだから、変えたらつながらない」
「…かけてみたら?」
スマイルはそっと、慰めるようにまた頭を撫で始めた。
「もしかしたらつながるかも知れないし、駄目でも、その人の家とか学校とか仕事先とか…なにか、つてはあるんじゃないかな」
「だけど…」
「言わないままでいいと思うなら、そうすればいいだけだよ。無理にかけることはないと思うけど」
「……」
「孔のしたいようにすればいい。でも、少なくとも話は聞いてくれるんじゃないかな。バカみたいにやさしい人なんだろ?」
そう言うと、孔は小さく笑ってうなずいた。
「二度と同じことしない為にさ、きちんと終わらせるんだ。…孔」
スマイルはまた孔の体を抱きしめて、耳元でささやいた。
「ありがとう…大好きだよ」
想いが伝わるように、祈ってるよ。