このあいだ雪が降ったというのに、梅が咲いているのを見かけた。体感温度は寒いままでも、自然は既に春へと移行しつつあるようだ。
道を歩きながらスマイルは、植物になって生きていけたら楽で良さそうだなぁとぼんやり思う。こんなふうにあれこれとわずらわしく思い悩まず、ただ時の移り変わりに身を任せてじっと、ただ静かに生きていければ、どれだけ楽でいいだろうか。
――でも、そうすると、好きな時にセックス出来ないな。
それは嫌だな、と思う辺りが人間として生かされている性なのかも知れないが、当然スマイル本人はそんなことなど思いも寄らない。
なだらかな坂をのんびり歩きながら、前方に目指す門を発見する。こんなに遠かったっけかな、と思いながら道を行くと、
「いででででででっ!」
門の辺りから、聞き覚えのある老齢の男性の悲鳴が聞こえてきた。思わず先を急いで門のなかをのぞくと、小泉が家の軒下をのぞきこんでいる姿が目に飛び込んできた。
「おーい、ごめんよ。もう無理やり捕まえたりしないから戻っておいで」
軒下に向かってそう声をかけている。
「先生…」
思わず呟くと、小泉はふと顔を上げてスマイルを見た。
「おお、月本! 久し振りだな」
「…なにしてるんです?」
おおかたの予想はついたが、一応聞いてみた。
「いやあ、前からうちの庭で昼寝をする野良猫が居てな、たまに餌をやってたんだ。そろそろ慣れた頃だろうと思って抱き上げたら、これだ」
そう言って小泉は無数の引っかき傷が出来た手の甲をスマイルに示してみせた。
「消毒した方がいいですよ」
「そうしよう。良かったらそこから上がりなさい。ひなたぼっこにはちょうどいい天気だ」
小泉はガラス張りの縁側をスマイルに示し、自分は玄関へと向かった。スマイルは靴を脱いで縁側に上がり、ガラス戸を締める。温かな日射しが射し込むなかに腰をおろすと、今がまだ二月になったばかりなのだということを忘れてしまいそうだった。
しばらく待っていると、やがて小泉がポットと茶の道具を抱えてやってきた。
「今、うちのが買い物に行ってるところなんだ。なにもなくて申し訳ないね」
「いえ、こっちこそ、突然にすいません」
茶を入れる小泉の手はバンソウコウだらけだ。でもきっとまたやるんだろうなと思って、スマイルはふと笑った。
「それで? 今日はどうしたね」
「はあ…なんて言うか、少し相談に乗っていただきたいんですけど…」
「まぁ私で答えられることならいいがな。なんだ」
湯飲みを差し出して小泉は今更のように部屋から座布団を持ってくる。スマイルは一枚受け取り、尻に敷きながら、
「依存を辞める方法ってなんでしょう」
「依存!? なんだ、物騒な話か」
「って言うか、まあ少し違うんですけど…」
スマイルはぽつりぽつりと話し出した。どうしても自分だけのものがみつからなくて、それで誰かを犠牲にしてしまうこと。相手を受け入れながらも、どこかで拒絶してしまっていることなど。
小泉は時折細かい説明を求めながらも、最後まで考え込むようにしながら話を聞いた。あいだに煙草を何本か灰にして。
「相手が信じられんのか」
「…信じてるつもりではいるんですけど」
「裏切られるのが怖いかね?」
「……」
そう聞かれると、実は返事に困る。いっそ裏切るなら早く裏切ってくれとも思ってしまうのだ。
「怖いというのは、少し違います。別に、それでもいいんです」
小泉は煙草をくゆらせながらじっとスマイルをみつめている。
「昔から、どうしても世界の仕組みが理解出来なくて、まあ一般的な常識はいくらでも理解出来ましたけど、ただ、こと人間関係になると…」
「そうだなぁ。君は非常に正直な人間だから周囲と上手くいかないのは良くわかるよ」
「…それで、自分一人だけならなんとかなるんです。たとえば大学で授業受ける時とか、普通に電車乗っている時とか、いくらでも常識的に振舞えます。だけど誰かが自分に好意を持って近付いてきて、僕がなんとも思ってなければいいんですけど、お互いに近付こうとすると、とたんにわけがわからなくなるんです」
「ひどく冷たくするとか?」
「…そうなのかな、その……まぁ冷たくもするし、なんて言うか、相手を支配しようとしてしまうというか――」
心の全てをのぞいても、それでもどこまでも信じられずに、どこまでも疑り、嫉妬し、怒り、傷付けてしまう。
小泉はふと考え込んだのちに、小さく笑ってみせた。
「責任感が強いのは結構だが、それでは子供は育たんぞ」
「――は?」
なんのことを言われたのかさっぱり理解出来なくて、スマイルは思わず小泉の顔をまじまじと見返した。
「相手を理解したいと思うのは当然だ。相手の心を自分に引き止めたいと思うのも、こと恋愛に関しては当たり前の感情だ。だが相手の全てを知ったところで相手を縛り付けることは無理だ。それはわかるだろう?」
「はい」
「それでも支配したいと思うのは何故か? 相手の人生を自分のものと思っているからだ。言ってみれば、相手を一人の人間として見ていないからさ。自分がついていないとなにも出来ない、赤ん坊と同じ存在に見ているんだ」
「……」
「人の親になると良くわかるがね」
そう言って小泉は煙草をもみ消した。
「小さな子供は放っておくとなにをするかわからん。善悪の区別がないし、危険を察知する能力も劣っている。親が教えてやらなければなにも出来ない。実際赤ん坊はそうだから、親はいつまでも勘違いしてしまうんだ。子供は幾つになってもなにもわからない愚かな存在だとな」
言いながら小泉は急須に湯を注ぐ。電動でないポットを見るのは久し振りのことだった。
「だが、子供も歳を取るにつれて知恵がつく。良し悪しの判断も出来るようになる。車が来ないか自分でちゃんと確認する。いたずらもする」
「……」
「悩みながらも大きくなり、様々な人と出会い、別れ、恋をして、結婚して親になる。子供を心配していた筈の親は、いつのまにかおじいちゃんだ」
そう言って小泉はふと嬉しそうに笑った。
「それでもやっぱり子供が心配になる。それは当然だ。我が子には幸せになって欲しいと思う、どうにかして自分のたどった道からなにか教訓を得て欲しいと思う。同じ間違いは犯して欲しくないと思う。だがそんな心配をいつまでもされたら、子供の方がたまらん。――もし君が、今でも三歳児に対するように『車に気を付けて遊ぶのよ』なんて言われたら、どうだ」
「腹が立ちますね、いつまでも子供じゃないんだから」
「だが君は、その相手に同じことをしようとしている」
思わず言葉に詰まった。
「自分をいつまでも子ども扱いする親は好きか? 一人前に見てくれない親を、いつまでも好きでいられるか?」
「それは…」
「人間関係でも同じだ。自分を信用してくれない相手を、君は信用出来るか?」
「……」
「相手をいくら支配したところで信用されるわけがない。信じてもらいたかったら、まず信じなさい。そうしなければなにも始まらない」
言いながら小泉は湯飲みに新しく茶を淹れてくれた。
「ハイハイしか出来なかった赤ん坊が、自分の足で立てるようになるのを見るのは、非常に喜ばしいことだよ。勿論寂しくもあるがね」
そう言って小泉は息をつき、湯飲みを口に運んだ。つられたようにスマイルも湯飲みを取り上げる。
「いつまでも手を貸してやっていたら、自力で立つことが出来ることすら知らずに終わってしまう。心配なのは重々わかるが、相手を信用して、手を放してやれ。勇気を出してしがみつくものから手を放してみれば、案外なにも失ってなどいないことが初めてわかる。子供が自立したからといって親でなくなるわけではないんだからな」
小泉はそう言って微笑んだ。
「…先生は、どうして教師になったんですか?」
「公務員だから食いっぱぐれがないだろうと思ったのさ」
笑いながら小泉は言った。
「まあそれは半分冗談だがね。ただ、目的もなく教職を取って教員になったのも事実だ。そんないい加減な気持ちでも続けてこれたのは、多分、そうやって育てる楽しみを覚えたせいだろうな」
「僕には出来そうもありませんね」
「何故だね?」
「こんな自分勝手で未熟な人間が、人様の大事な子供を育てるなんて出来るわけがありません」
「それは違うぞ」
小泉は湯飲みを戻してかぶりを振った。
「誰だって一人で生きているわけじゃない。生まれた時から立派な人もおらん。お互いいろんな形で関係しあって、そうやって互いを磨きあうんだ。君がもし教師になったとしたら、子供たちを育てながら、君が育ててもらうんだ。人間関係ってのはもともとそういうものだ」
そうしてふと笑った。
「この歳になっても、いろんなことを教えてもらう機会がある。そのたびにまだまだ未熟だと思うんだ。だから生きるのが楽しい。…君に会ってからも、いろいろと学ばせてもらった。とうに出来ているじゃないか」
「……」
「卒業まで見ることは出来なかったが、それでも、君のことは息子のように思っているよ。――まあ、息子と言うには歳が離れすぎているがな」
そう言って小泉は声を上げて笑った。スマイルはただ小さく笑い返し、
「ありがとうございます」
心の底が、ふと温かくなる。
いつかは自分も、こんなふうに屈託なく笑えるようになる日が来るのだろうか。
――いや、
笑えるようになりたいと、スマイルは思った。
『笑えよ』
耳の奥に残るペコの言葉が、今頃になって未来を予言するかのように、小さく響いた。