だがもし孔が卒業後も残るのであれば――そう考えて、けれどその可能性は薄く、そしてきっと孔は同意しないだろうと否定的な感情に見舞われ、喉まででかかったその言葉を飲み込む為に、風間はウーロン茶の残りを飲み干した。
「そろそろおいとましよう」
そう言って立ち上がる。
「帰るのか?」
「ああ。あまり遅くなるとまずいのでな」
休み中なので点呼はないが、就寝時間の十一時には門が閉まる。それまでには帰らないといけなかった。
「私、なにか悪いことを言ったか?」
上着を着て玄関に立った風間に、孔がそう聞いた。「何故だ」と聞き返すと、少し困ったような顔をして、
「風間、怒っていないか?」
恐らく動揺を悟られまいと表情を消した為に怒っていると勘違いされたのだろう。理由は話せないが、それでも、
「いいや」
このまま別れるのは嫌だ。
「そうではない。少し…考えるところがあってな。怒ってなどいない」
「本当か?」
「本当だ」
ようやく安心したらしく孔は小さく笑った。そしてベッドの上着を拾い上げて、「駅まで送る」と言った。
再び暗い夜道にくりだしながら、「また来い」と孔は言う。
「また鍋を作る。冬はいい。温かい」
「ああ。喜んでご馳走になろう」
「ゴ…?」
「ごちそう、だ。君の料理を喜んで食べさせてもらう、という感じかな」
なかなか言葉の説明は難しい。
「風間は、ゴチソウになる。私はなんと言う」
「言う?」
「私が風間に飯を食べさせる。それをなんと言う」
「ご馳走する、だ。また呼んでくれ」
「ああ、ゴチソウする」
二人は夜道で声を上げて笑いあった。
「試験はいつだ?」
駅に着くと孔がそう聞いた。
「一月十日だ。十五日には結果が出る」
「その頃にまた電話する」
「ああ」
待っている。
孔の顔をみつめて風間はうなずいた。
電車がやってきたので風間は「じゃあ、また」と呟き、手を上げた。孔は無言で手を上げてそれに応えた。車両に乗り込む時、
「おやすみ」
そう言う孔の言葉が聞こえた。ふと足を止めて振り返ると、薄暗い電灯に照らされて孔が笑顔で手を振っていた。
「おやすみ」
手を上げて応える。乗り込むと、すぐにドアが閉まった。座席に腰をおろして風間は寮へと向かう。孔は夜道を歩き、また一人のアパートへと帰ってゆく。
一緒に、暮らさないか。
耳の奥に残る孔の「おやすみ」という言葉を繰り返し聞きながら、風間は幻の孔に向かって、そう呟いてみせた。
孔は困ったように笑ったまま、なにも答えなかった。
一月に入ると朗報が二つ、風間のもとに飛び込んできた。
一つは大学の合格通知だ。予想していたとはいえやはり現実のものとなると嬉しい。これで卒業までのんびり過ごすことが出来る。二月になれば三年生は授業もなくなる。卒業式までに一度か二度、学校へ行けばいいだけとなるのだ。じきに仲間との別れの時が近付いてくる。だが大半の者は二月から三月にかけてが受験の本番だ。そんななかで早くも合格が決まった風間は、一人ぽつんと騒がしさから放り出されてしまったかのようでもあった。
通知が届いた翌日、孔から電話があった。朗報のもう一つはその孔がもたらしてくれた。
『どうだった?』
心配するように少し声をひそめて孔が聞く。受かったと言うと、
『おめでとう』
そう言って安堵のため息を洩らした。まるで自分のことのように気にかけてくれたのが嬉しくてたまらなかった。
『風間の受験は終わった。私の受験はこれからだ』
「大学に入るのか?」
驚きと喜びのせいで思わず大きな声を出してしまった。あわててそっぽを向く。実はさっき真田がにやにや笑いながら廊下を通りかかったばかりなのだ。
『大学ではない。日本に入る為の、受験だ』
「どういうことだ?」
『辻堂で働く』
専属のコーチとして残ってくれないかと慰留されたのだという。実際に日本での大学受験も、本国での受験も就職も予定がないことは知っていたので、卓球部の顧問が校長に直訴したらしい。辻堂学院は私立校なので、その為の金を出すことに無理はない。辻堂からの給料で生活費の全てがまかなえるわけではないが、今行っているバイトを続ければ出来ないことではないそうだ。
『書類は出した。一度上海に戻って手続きをする。日本が許せば、私は辻堂で先生が出来る』
就労ビザが下りれば、日本に残れると孔は言う。
「…本当に先生になるんだな」
『ああ。風間も言った。私は先生になるのがいい。あの一年生を見ることが出来る。他にも教える。卓球を辞めなくて済む。風間のお陰だ。ありがとう』
「私はなにもしていない」
『私が居るのは意味があると言った。あれで頑張れた。風間のお陰だ』
「……」
嬉しさのあまり、言葉に詰まってしまった。目の前に居たら抱きしめていたかも知れない。
「初めて、役に立ったな」
『なんだ?』
「私にも手助け出来ることがあった。私の方こそ嬉しいよ。…ありがとう」
週末にまた鍋を作ると言った。会う約束をして電話を切ると、いつの間にか廊下の角で真田と猫田が興味津々といった体で風間をみつめていた。「なんだ」と素っ気無く聞くと、
「おデートでっか、風間センセ」
にやにや笑いながら猫田が言う。無視しようかとも思ったが、今夜はあまりにも喜びにあふれていたので、同じようににやりと笑い返して、
「うらやましいのなら、素直にそう言え」
「うぅわ、でえりゃあむかつくー!」
静かにしてくださいと香川に怒られるまで、風間はもみくちゃにされることとなった。